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「日本サッカーの父」クラマーを連れてきた“知られざる丸腰の留学生”とは《革命的な“止める・蹴る”とメンタル指導秘話も》
posted2021/09/24 11:05
text by
出嶋剛Takeshi Dejima
photograph by
Takuya Sugiyama
1921年9月10日に大日本蹴球協会として発足した日本サッカー協会が創立100周年を迎えた。
1世紀の歩みにはいくつか大きな転換点があるが、最初にして最大の転機は「日本サッカーの父」と呼ばれるドイツ人指導者、デットマール・クラマー氏の招聘だろう。1964年東京五輪をにらんだ代表強化が第一義だったが、退任に際して残した提言は、日本代表強化、育成、指導者養成の要諦を穿ち、その後の羅針盤になった。
長沼健氏や岡野俊一郎氏、川淵三郎・日本協会相談役といった次代のリーダーがクラマー氏の教えに触れなければ、今日の日本サッカーはなかったと言っていい。
「他のスポーツを見渡しても外国人指導者を呼ぶということはなかった。画期的だった。クラマーさんに出合っていなかったら、日本サッカーはどうなっていたか。まさに日本の夜明けだった」
川淵相談役の言葉だ。
それほどの大きな転機でありながら、クラマー氏の来日はいくつかの奇縁が紡がれなければ実現しなかった。
クラマーを連れてきた仲介役、その人物像とは
力を尽くしたのは成田十次郎氏だ。日本協会とドイツ・サッカー連盟をつないだ仲介役ではあったが、経緯の仔細はこれまであまり語られていない。
成田氏は東京教育大(現・筑波大)でウイングとして活躍し、その後は教育者の道を歩んで1960年から体育史を学ぶためにケルン体育大への留学が決まっていた。出発を目前にした同年春、日本協会の竹腰重丸理事長らに原宿の南国酒家に呼ばれ、切り出された。
「西ドイツに行くらしいな。実は協会は外国人指導者を呼びたいと思っている。西ドイツから連れて来られないか」
当時の日本はローマ五輪出場を逃し、4年後の自国開催の五輪に向けて出直しを迫られていた。思い切って海外から指導者を呼びたい。戦前から日本と縁があり、1954年のW杯スイス大会で初優勝した西ドイツはどうか。当時の日本協会会長・野津謙氏の決断だった。そんな折、日本代表候補でもあり、協会広報の仕事を手伝った縁もある成田氏の留学話は渡りに船だった。