Jをめぐる冒険BACK NUMBER
Jリーガーを辞めてJリーグを目指す“矛盾” プロ3年で引退した井筒陸也の今「僕がJリーガーに戻ることにはなんの意味もない」
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKiichi Matsumoto
posted2021/08/26 11:00
関東サッカーリーグ1部に所属する「クリアソン新宿」で主将を務める井筒陸也(27歳)。わずか3年でプロを引退した元Jリーガーが見据えるものとは
小学校の入学前後に地元・大阪のクラブでサッカーを始めた井筒が、そのクラブのジュニアユースを経て初芝橋本高、関西学院大でもサッカーを続けたのは、積極的な理由によるものではなかった。
最初に始めたスポーツが、たまたまサッカーだったから――。
冗談か本当か分からないような話を、井筒は真面目な顔で語る。
「本当に、そんな感じで。だからいつ辞めてもよかったんですけど、高校も大学もスポーツ推薦だったし、高校時代も大学時代もキャプテンだったので。高校時代は自分が一番うまくないと、誰も言うことを聞いてくれなかったし、大学時代も呉屋大翔や小林成豪(いずれも現大分トリニータ)を御すためには、それなりにサッカーができないといけなかった。
徳島時代だってチームメイトに物申すなら、試合に出なきゃ分かってもらえない。常にそういう感じでサッカーと向き合ってきたので、めちゃめちゃネガティブというか(笑)。サッカー楽しいとか、日本代表になりたいとか、本当になくて」
もっとも、根っからの仕切りたがり屋だから、キャプテンを務めることは、まんざらでもなかった。
「コントローラータイプなんですよね。自分の思い通りにやりたいところがあるので。そのためにも、サッカーを頑張らないといけないなって」
初芝橋本高といえば、吉原宏太、岡山一成、酒本憲幸、辻尾真二といったJリーガーを輩出した強豪校で、関西学院大は元日本サッカー協会会長の長沼健(故人)や元日本代表監督の加茂周の出身大学である。
そんなサッカー界の王道を歩んできたエリートはほぼ例外なく、子どもの頃から「J1でプレーしたい」「日本代表になりたい」という夢を抱きながら辛い練習にも耐え、キャリアをステップアップさせていくものだろう。
しかし、井筒は数少ない例外だった。
「本当にJ1でプレーしたいとか、日本代表になりたいとか、なくて。ただ、自分にその可能性が低かったから、早々に消したっていうのもあると思います。この前、同世代の日本代表選手と話をする機会があって。彼は若い頃から海外でプレーすることや、日本代表になることを夢見ていたと言うんです。自分にも、それだけのポテンシャルが内在していたら、きっとそう思っていたかもしれない。サッカーで秀でているわけじゃなかったので、別にいっか、みたいな感じだったんだと思います」
“個人昇格”を果たす仲間たち
日本代表はさておき、J1でプレーできる可能性がなかったわけではない。
リカルド・ロドリゲス監督(現浦和レッズ監督)に率いられた当時の徳島は、欧州の潮流であるポジショナルプレーを取り入れたチャレンジングなサッカーを展開していた。
その攻撃的なスタイルがJ1クラブの強化部の関心をひくのは時間の問題だった。その結果、渡大生にサンフレッチェ広島から声が掛かった。馬渡和彰にも広島からオファーが届いた。大崎玲央がヴィッセル神戸に引き抜かれた。さらに、山崎凌吾が湘南ベルマーレへ移籍し……と、いわゆる“個人昇格”を果たす選手が続出した。
井筒もその流れに、乗れなくはなかった。
「左利きだし、サイズもそこそこあるし『自分も行けるかも』と思ったことがあるのは確かです。もし代理人を付けたら、どこかにねじ込んでもらえるかもなって。でも、代理人を付けることはなかったですね。J1に行って、競争して、試合に出られるようになって、どこを目指す? 今とあんまり変わらないなって。
徳島への加入が決まったとき、J2だったけど、親戚一同すごく喜んでくれた。世間ではJ1だろうが、J2だろうが、全部Jリーグっていう認識で、大差ないんだろうなって。天邪鬼ですけれど(笑)」