熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
なぜ王様ペレは「30歳で代表引退」「背番号10を特別な番号」にしたのか… ブラジル人重鎮記者だからこそ知る“天才性”
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byColorsport/AFLO
posted2021/08/16 11:01
ジュール・リメ杯を手にするフットボール界の王様ペレ。デビュー当時からよく知る重鎮記者に語ってもらった
イングランド発祥の競技を南米のスキルで改革した
多くの南米選手が欧州のクラブで活躍する現在と異なり、ペレが国際舞台で活躍した1950年代後半から1970年頃まで、欧州と南米のフットボールはほとんど交流がなかった。外国で行なわれる試合のテレビ中継もなく、両大陸の選手がお互いのことを知るほぼ唯一の機会がW杯だった。
それゆえ、1958年W杯で少年ペレをはじめとするブラジル人選手が披露した斬新なプレーの数々は、世界中のフットボール関係者とファンの度肝を抜いた。しかし、彼らのプレーの背後には、このイングランド生まれの球技が南米で独自の発展と変貌を遂げていたという経緯があった。
1863年にロンドンで近代フットボールのルールが制定されると、19世紀後半、この新しいスポーツは英国人の船員、教師、銀行員、商社員、鉄道技師らによって南米へ伝わった。
フットボールの創成期、イングランドを始めとするヨーロッパではドリブルといえばボールを直線的に前へ押し出し、スピードとパワーでマーカーをかわすだけの単純なものだった。しかし、ブラジル人選手は片方へ行くと見せかけて逆方向へボールを押し出して相手を抜いたり、ボールの上で足を交差させて相手を幻惑してから抜き去ったり(跨ぎフェイント)、といった技巧的なドリブルを発明したとされる。これに対し、アルゼンチン人選手はボールを引いて相手をかわすテクニックを多用した。
無回転シュートやオーバーヘッドキックも
キックに関しては、ブラジル人選手が足の内側や外側を使ってカーブをかけたり、ボールの中心部を強く叩いてボールを急激に落下させたり(無回転シュート)といった技術的なキックを、チリ人選手がオーバーヘッドキックを編み出したとされる。
パスに関しては、当初、イングランドではキック・アンド・ラッシュ(大きく前方へ蹴り出して大勢で追いかけること)が主流だったが、これに対抗して、スコットランドで短いパスをつなぐシュートパス戦法が発明された。
これが南米へ伝わると、ブラジル人選手たちは即興的なパス交換を好んだ。また、ウルグアイ人たちは首都モンテビデオの路上で、縁石にボールをぶつけてその跳ね返りを先で受けて相手を抜き去る方法を考案したとされる。つまり、壁パスである。
ペレは、これら南米で発明されたり改良された技巧的なプレーの数々を完璧にやってのけ、さらにマーカーの頭越しにボールを通して抜き去るといった新しいプレーを自らも編み出した。彼は、「ジョーゴ・ボニート」(美しいフットボール)を体現する存在だったのである。
また、ペレは「背番号10」に特別な意味を与えた。