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なぜ王様ペレは「30歳で代表引退」「背番号10を特別な番号」にしたのか… ブラジル人重鎮記者だからこそ知る“天才性”
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byColorsport/AFLO
posted2021/08/16 11:01
ジュール・リメ杯を手にするフットボール界の王様ペレ。デビュー当時からよく知る重鎮記者に語ってもらった
セレソンでの通算成績は、92試合に出場して77得点。1980年代までは国際Aマッチの数が近年よりずっと少なかったため、出場試合数は歴代14位に過ぎないが、通算得点数は歴代最多である。
ペレの由来は「ビレ」という名のGK?
マリオ・ネットは、1930年代から60年代にかけてリオのスポーツ・ジャーナリズムの第一人者としてフットボールの隆盛に寄与し、1950年の自国開催W杯のために収容人員20万人という破天荒な規模のスタジアムの建設を主張してスタジアムの正式名称(エスタジオ・ジョルナリスタ・マリオ・フィーリョ)に名を残すマリオ・フィーリョ(1908~66)の孫である。
「祖父の影響で、子供の頃から、マラカナン・スタジアムで行なわれるセレソンの試合は欠かさず観戦してきた。その数百試合の中で、この試合はひときわ強く印象に残る」
エジソン・アランテス・ド・ナシメント、通称ペレは、1940年10月23日、ブラジル南東部ミナス・ジェライス州の小都市トレス・コラソンエスで3人兄弟の長男として生まれた。父親はプロ選手で、長身でヘディングが得意なCFとして中小クラブを渡り歩いた。
4歳になる直前、父親がサンパウロ州の中都市バウルーのチームでプレーすることになり、一家で引っ越した。ペレは父親からフットボールの基本を教わり、地元のアマチュアチームでプレーした。小さくて痩せていたが、スピードとテクニックが飛び抜けていた。
当時、リオの強豪バスコダガマで活躍していたビレというGKのファンだった。友人と路上でミニゲームをしていてGKを務めることがあり、シュートを止めると「ビレ、ビレ」と叫びながら喜んでいた。ところが、あるとき「ペレ、ペレ」と言い間違え、以後、それがニックネームとなった。
13歳のとき、地元のバウルーACのU-17に入団。自分よりずっと年上で大柄な少年たちに混じって練習を積み、巧みなドリブルでマーカーを翻弄し、両足と頭でゴールを決める選手へ成長していった。