濃度・オブ・ザ・リングBACK NUMBER
「人生狂いました、いい意味で」母の心配も賛否両論も超えて…世羅りさと“同志”たちが突き進む女子プロ“デスマッチロード”
posted2021/08/07 11:00
text by
橋本宗洋Norihiro Hashimoto
photograph by
Norihiro Hashimoto
初めての蛍光灯デスマッチは「2人だけの戦場」だったと世羅りさは言う。
6月27日のアイスリボン後楽園ホール大会。メインイベントのFantastICEタイトルマッチだ。この王座はチャンピオンが試合ごとにルールを指定できる。山下りなが挑戦を表明すると、世羅は無意識に「蛍光灯デスマッチで」と口にしていた。会社には事後申告だったが、社長の返事も「いいよ」とシンプルだった。
ここまでくるのに、6年かかった。
女子の蛍光灯デスマッチは“NO”
6年前、世羅は「蛍光灯デスマッチがやりたい」と訴えた。その気持ちが芽生えたのは練習生の頃だ。見学に行った大日本プロレスの興行で“平成極道コンビ”の蛍光灯デスマッチを見た。
「何をやられても、何度倒されても血を流しながら立ち上がってくる。これは凄い、いつか自分もと思っていました」
男子がやっているんだから、女子はダメということもないだろうと思っていた。デビュー3年目、「感情が爆発して」蛍光灯デスマッチ実現を訴える。だが当時の団体の答えはNOだった。アイスリボンのスローガンは“プロレスでハッピー”だ。埼玉県蕨市に道場兼常設会場を持ち、地域密着の活動を展開してきた。家族連れの観客もいる。血まみれのデスマッチはいかにも不向きに思えた。ファンも賛否両論だった。
母親のメール「なんでそんなことをりさちゃんが…」
一時は退団も考えたという世羅だが、自主興行という形式に活路を見出す。手始めは「人毛デスマッチ」。アイスリボンの後楽園ホール大会が終わった直後、観客を入れ替えての開催だった。
リング下の箱に髪の毛を敷き詰めての闘い。痛みよりも生理的不快感がダメージになるわけだ。ホラー映画を見て思いついたアイディアだという。デスマッチを主力とする大日本プロレスの社長、登坂栄児からの「最初は血を流さないようなところから、自分だけのデスマッチを考えてみては」という助言もあった。いきなり蛍光灯を使って大流血戦をやるより、徐々に理解を求めたほうがいいということだ。
デスマッチは、それでチケットが売れるかどうかというだけでなく、団体全体の理解と運営体制が不可欠だ。フロアの養生、蛍光灯やガラスの破片に画鋲など撒き散らされた凶器の回収。もちろん普段の撤収作業よりも時間がかかる。床や壁に血がついたら丁寧に拭き取る必要もある。デスマッチとは、闘う選手だけでなくスタッフ、セコンド陣による細かい仕事、そのノウハウの積み重ねの産物でもあるのだ。
「以前のアイスリボンにはそれがなかったし、してもらうための理解を私が得られていなかったんです」と世羅。母親から「なんでそんなこと(デスマッチ)をりさちゃんがやらなきゃいけないの。プロレスは他の形でもできるでしょう」というメールがきたこともある。心配する気持ちは分かるから、返信ができなかった。