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「負けたら坊主。下の毛まで」大学生で“64年東京五輪代表”マサ斎藤が明かした“地獄のトレーニング”と屈辱のフォール《レスリング》 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph by斎藤倫子さん(奥様)提供

posted2021/07/27 11:00

「負けたら坊主。下の毛まで」大学生で“64年東京五輪代表”マサ斎藤が明かした“地獄のトレーニング”と屈辱のフォール《レスリング》<Number Web> photograph by 斎藤倫子さん(奥様)提供

1964年の東京五輪にレスリング代表として出場したマサ斎藤。当時はまだ大学生だった

水を飲んでいいのは、コップ一杯だけ

 オリンピック代表候補の強化選手になってからの練習は過酷をきわめた。

「練習は厳しかったね。しかもコーチはみんな軽量級の元選手だから、練習内容が全部、軽量級用のメニューなんだよな。それじゃ、俺たちヘビー級は身体がもたない。走る距離も軽量級と同じだし、懸垂なんかも軽量級と同じだけやらされたからね。その反面、当時はウエートトレーニングが組み込まれていなかったから、自分で重量挙げの連中にやり方を聞きながら、自己流で取り組んでたよ。ヘビー級の外国人のパワーは半端じゃないからね。

 また、当時は水も飲ましてくんなかったよ。いま考えたらバカみたいな話だろ? 水を飲んでいいのは、メシを食うときに小さなコップ一杯だけ。なぜか重量級もそうだったからね。負けたときなんて『おまえら、水を飲みすぎてるから負けた』とか言われてな。遠征先での食事の時、俺の大事な一杯の水をこぼしたヤツがいるんだよ。あんときは頭に来たな~(笑)」

「あの悔しさは一生忘れることはないだろうな」

 斎藤は、東京オリンピック最終選考会を兼ねた1964年8月の全日本選手権でヘビー級のフリースタイル、グレコローマンの両方を制覇。晴れてフリースタイルで東京オリンピック出場が決定し、グレコローマンは2位だった杉山恒治(のちに国際プロレスなどで活躍するサンダー杉山)が出場することとなった。

 日本選手団の中では比較的国際試合の経験が豊富な斎藤だったが、オリンピックという舞台は別次元だったという。

「オリンピックと他の大会はまったく違ったね。緊張感が桁違いだよ。それにオリンピックの重量級では、身体が大きくて化け物みたいなのがゴロゴロいた。体格差を痛感させられたよ」

 斎藤は初戦となる2回戦、体重127kgでメダル候補だったスウェーデンのロバートソンと約30kgの体重差がありながら殊勲の引き分け。続く3回戦でも身長195cmを誇るイギリスのマクナマン相手に終盤までポイントでリードしていた。しかし……。

「ポイントでリードしてたから『いける!』と思って脇を差したとき、巻き込まれてフォールされたんだよ。相手がそういう技を持ってるとか、当時の日本のコーチはデータを持ってなかったんだよな。オリンピックで勝つのには、やっぱりそういったデータが必要よ」

 このフォール負けによって3回戦で失格。斎藤の東京オリンピックは終わりを告げた。

「ほんの一瞬の悪夢。オリンピックには魔物が棲むっていうのは、こういうことかと思うよ。『あの時、ああしていれば……』という思いが、何年経っても消えない。あの悔しさは一生忘れることはないだろうな」

【次ページ】 「開会式で立ち小便してるヤツもいたからな(笑)」

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