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「負けたら坊主。下の毛まで」大学生で“64年東京五輪代表”マサ斎藤が明かした“地獄のトレーニング”と屈辱のフォール《レスリング》
posted2021/07/27 11:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
斎藤倫子さん(奥様)提供
「オリンピックが開催されるたびに、4年に一度、あの悔しさを思い出すよ」
生前、マサ斎藤さんは常々そう語っていた。1964年の東京オリンピックでレスリング日本代表だったことは生涯の誇りではあるが、思い出すのは悔しさばかりだという。
「『日本国にメダルをもたらすために身を投げ打て』という時代だったからね。『絶対に勝て!』と何度も檄を飛ばされ、俺自身そのつもりだったけど、メダルは獲れなかった。『負けたら坊主。下の毛まで』それが監督との大会前からの約束だったから、そのとおりやったよ」
日本はレスリング強国であるが、それは主に軽量級での話。重量級は海外選手との体格差、パワーの差が大きく、過去にオリンピックでメダルを獲得した日本人選手はいない。それでも、スピードとスタミナに定評があったマサ斎藤こと斎藤昌典は、1964年の東京オリンピックでメダルが期待されていた。それだけに悔しさが忘れられなかったのだろう。
大学3年のヨーロッパ遠征で「マフィア」のあだ名がついた
もともと斎藤は、早くから“世界”を見据えていた選手だった。レスリングを始めたのも、柔道や空手などと違い、“カタカナ”の海外から来たスポーツで、なんとなく世界に羽ばたけそうだと感じたからだったという。そして高校2年時、1964年に東京でオリンピックが開催されることが決定すると、それが斎藤の目標となった。
「昭和39年(1964年)といえば、俺が大学4年になる年。まだ実績なんて何もなかった高校の時から、俺の中では勝手に日本代表になるつもりだったんだよ」
高校はレスリング弱小校だったが、個人で国体に出場し全国3位入賞。その実績が認められ多くの大学から推薦の話が届き、明治大学に進学。1~2年時はなかなか結果が出なかったが、大学3年でその実力が開花。世界選手権にも出場し、40日間にわたったヨーロッパ遠征では、その暴れっぷりで海外の関係者から「マフィア」というあだ名がつけられた。
「向こうで国別の団体対抗戦をやったとき、相手選手と頭と頭がぶつかって、額から血が流れてきたのよ。それでもガンガンやって、相手を場外にぶん投げたら『マフィア』って呼ばれるようになったんだ(笑)」