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元バレー日本代表・竹下佳江が語る「オリンピック」24歳で引退を決めたシドニー敗退の戦犯扱い…メディアとの関係性とは?
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph byTakao Yamada
posted2021/07/21 11:01
シドニー大会への出場を逃したことで「オリンピック」の大きさを感じたという竹下佳江。その後、3度のオリンピックに出場し、ロンドン五輪でのメダル獲得に貢献した
「会社の経営など、要因はいろいろあるとは思いますけど、(シドニー五輪予選敗退が)きっかけにはなったのかなって。『歴史のあるバレーボールもオリンピックに出られないんだ』となった時に、企業がバレーチームを持つことにメリットがあるのか、そこに投資する必要があるのかという議論も出てくると思いますから。
日立とかユニチカといった伝統あるチームが、その(廃部という)決断をしていくことは、なかなかのことだと思うんですよ。自分のチーム(NECレッドロケッツ)はそのまま普通にバレーができていたんですけど、ひとごとではいられないというか、心が痛いというか。バレー界に生きていて、いろんなことが変わっていくのをすごく感じましたし、危機感はありましたね」
竹下はシドニー五輪予選後、まるで戦犯であるかのように扱われて深く傷つき、バレー界の変化も敏感に受け止めてしまい、多くのものを背負いこんだ。その結果、2002年に一度、現役引退を決断した。
「今振り返ると、本当にいろんなことが影響していたなと痛感します。当時はまだ20代前半だったので、本当にもう自分自身のメンタルがいっぱいいっぱいで、とにかくこの業界から離れたい、バレー界から離れたいという一心で辞めたんだと思います」
「新鮮」に感じたJTのバレー
しかし竹下を放っておかない人物がいた。
当時、JTマーヴェラスの監督を務めていた一柳昇が足しげく竹下の元に通い、復帰へと導いた。
「一柳さんには、『まだアスリートとしての伸び代があるから、もう1回、一緒に成長していきたいね』という話をされました。それまで、そういう指導者にあまり出会ったことがなかった。どちらかというと、やらされるというか、きつい感じだったんですけど、自分で考えてやることを大事にしたり、体の使い方を提案されたり。そういうのが新鮮だったので、また何か違ったものを吸収できるのかなと思えて、『ここで頑張ろう』と、スタートしました」
当時Vリーグの2部にいたJTを、竹下は加入1年目で1部に引き上げると、2003年には日本代表にも復帰。そして2004年、アテネ五輪世界最終予選で、五輪出場権を獲得した。