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<65歳に>「モスクワで走っていれば金メダルだった」マラソン界のレジェンド・瀬古利彦が語る“狂った人生の歯車”
posted2021/07/15 06:00
text by
加藤康博Yasuhiro Kato
photograph by
Shigeki Yamamoto
〈初出:2021年5月6日発売号「アスリート50人が語る東京五輪」/肩書などはすべて当時〉
現役時代、マラソン戦績15戦10勝と圧倒的な強さを誇ったが、3度代表に選ばれたオリンピックだけは栄誉を手にできなかった。東京五輪には日本陸連強化委員会のマラソン強化戦略プロジェクトリーダーとして挑む。かつて「世界最強」と謳われながら五輪の女神から微笑みを向けられなかった瀬古氏にとってのオリンピックとは?
1979年12月の福岡国際マラソンで勝ち、モスクワ五輪男子マラソン日本代表に決まりましたが、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻に西側諸国が反発し、ほぼ時を同じくしてオリンピックへの日本のボイコットが囁かれるようになりました。
当初は「何とか日本は参加して欲しい」と考えていましたが、時間がたつにつれ、「参加でも不参加でもいいから早く決めて欲しい」という気持ちに変わっていきました。オリンピックを想定して練習はしていましたが、どうなるか分からない状態では命を懸けた練習などできませんからね。
1980年5月24日、日本のボイコットが決まった時には落胆しましたが、すぐに次の目標に切り替えられました。当時まだ23歳。「次のオリンピックがある」と思えたからです。
「参加していれば私が金メダルだった」
ただモスクワ五輪を見て「出ていれば私が勝っていた」と思ったことも事実です。実際、優勝したW・チェルピンスキー(東ドイツ)には1978年の福岡国際で勝っていますし、モスクワ後の福岡国際でも勝ちました。「参加していれば私が金メダルだった」との思いは今でもあります。
1979年からマラソン5戦を全勝して挑んだロサンゼルス大会も私は優勝候補に挙げられていました。この時は日本にとって8年越しのオリンピックとあって、注目度もプレッシャーも尋常ではなかった。練習でも日々の生活でも常に誰かの視線を感じ、マスコミに追われる日々の中で私は自分を見失いました。
結果、オーバートレーニングによる体調不良のままレースに臨み14位と惨敗。当時は夏のマラソンも経験しておらず、オリンピックを特別なものと考えすぎてしまったんだと思います。逆に1988年ソウル大会は国内の注目も中山竹通選手に移っていましたし、私のピークも過ぎていました。9位は順当な結果でしょう。改めて振り返っても私はオリンピックに縁がない競技生活だったと思います。