酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
大島康徳は昭和野球史を彩った「ノンブランドの名選手」 通算2204安打に本塁打王、44歳まで現役、忖度なき好解説
posted2021/07/07 06:00
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kazuhito Yamada
筆者が大島康徳という選手を初めて意識したのは1974年10月14日、後楽園球場の巨人-中日戦、つまり長嶋茂雄の「引退試合」のときだった。
高校から帰ってテレビをつけると、時折ハンカチで顔を抑えた長嶋が観客に手を振り、球場を一周するところだった。「ミスターG栄光の背番号3」と大きく映ったバックスクリーンの両軍メンバー表には巨人の「4番三塁長嶋」に対峙する形で中日「4番三塁大島」になっていた。
この年、巨人のV10を阻止した中日の主力は、高木守道、谷沢健一、木俣達彦、ジーン・マーチンらであって、大島は脇役という印象だった。大島は長嶋茂雄に白いユリの花束を渡したが「なぜ」と思った。
実は2日前にリーグ優勝した中日の主力陣は、名古屋での優勝パレードに出るため試合を欠席し、長嶋の引退試合には、大島など若手選手が出場したのだ。大島はすでに規定打席に到達したこともある選手だったが、中日でのステイタスはそれほど高くなかったのだ。
山本浩二や田淵、星野と同じ年のドラフト
「地味」は、大島康徳について回った言葉ではないかと思う。
1968年は、日本プロ野球史上空前の「ドラフト大豊作年」だ。この年のドラフトで、広島の山本浩二、阪神の田淵幸一、中日の星野仙一、さらには阪急の福本豊、加藤秀司、ロッテの有藤通世など昭和後期の野球史を飾った大選手が多数輩出した。実はその一人が大島康徳だった。通算安打数でいえば同期では福本、山本に次いで3位だが、なぜか大島はあまり話題にならない。
大分県立中津工(現中津東高)出身。プロ野球選手は数人輩出しているが、大島以外に大成した選手はいない。
「法政三羽烏」と言われ、どこに入団するかをメディアが追いかけた田淵幸一、山本浩二などに比べれば控えめな入団だったのだ。
入団当初は投手だったが野手に転向。3年目には一軍出場を果たすが、外野、一塁、三塁とポジションが定まらず、主力と言う印象はなかった。
転機は“ドラ9”島谷のトレードから
大島の転機は1977年、当時の正三塁手だった島谷金二が阪急にトレードされたことでめぐってきた。
島谷も大島と同じ1968年組で大島よりはるかに下のドラフト9位での入団だったが、実業団上がりであり1年目から規定打席、不動の正三塁手になった。トレードで阪急からやってきた三塁手の森本潔が不振だったこともあり、大島は正三塁手となり打率.333をマーク。オールスターにも初出場した。