甲子園の風BACK NUMBER
「アンチ高野連」を利用したキャンペーンに女子高野連が激怒… 高校女子野球を税金で支え続けた丹波市との関係
text by
飯沼素子Motoko Iinuma
photograph byMotoko Iinuma
posted2021/06/09 17:01
全国大会を手弁当で支える丹波市の皆さん。球場は毎年選手と地元民でごった返す
「きっと市島を女子野球の聖地にしてみせる」
しかし、手紙から目を上げた堀は思った。
「よーし待っとれよ。きっと市島を女子野球の聖地にしてみせる」
こうして女子高野連と丹波市の人々は、様々な苦労を乗り越えながら女子高校生たちに夢の舞台を提供し続けた。それだけに丹波市の人々の大会にかける思いは強く、もはや大会のハイライトである決勝を他球場にもって行くなど、とても口にできる雰囲気ではなくなっていた。加盟校などから甲子園での試合の可能性を問われても、女子高野連はいつも「そんなことはできません」と答えた。
「学校部活動なのに、男女で差をつけるのはおかしい」
そもそも「女子も甲子園」とは何なのだろう。
女子硬式野球の創設者、四津浩平は、男子とは別の明るくのびやかな女子独自の野球を目指していたため、当初から高野連に加盟することは考えていなかった。彼にとっての「女子も甲子園」は、女子野球のPRであった。
女子高野連初代副会長の神村勲は、男女平等の観点と、大観衆の中でプレーする喜びを女子にも味わわせたいという思いから、それを訴えた。
第3代副会長の小林清木(元花咲徳栄高校校長)は、部活動が高校教育の一環である以上、男女平等は保障されるべきであり、またアマチュアリズム厳守のためにも、高野連の中に男子と並列して女子部を作るべきだと考えた。甲子園出場はそのための一ステップという位置づけだ。
このように「女子も甲子園」の捉え方は一定ではないが、総じてその根底にあるのは「女子高校生の野球を認めてほしい」「同じ学校部活動なのに、男女で扱いに差をつけるのはおかしい」という、高野連に対するアンチテーゼだったと言っていいだろう。
この思いは女子野球関係者だけでなく、多くの人々の心の中にくすぶっていたと考えられる。そのため、16年に甲子園で練習補助をしていた大分高校女子マネージャーが、グラウンドから退場させられたときは、世の中の人々が一斉に高野連を批判した。
そんな世論を上手にすくうかたちで、17年、「女子も甲子園」のキャンペーンを始めたのが、日本女子プロ野球機構を運営する健康食品会社、わかさ生活である。