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通信制高校→米国留学で肩を壊し帰国→国立大で税理士の勉強と並行して野球… 26歳145km右腕が無謀でもメジャーを目指す理由
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph byTakeshi Shimizu
posted2021/05/17 11:00
紆余曲折の野球人・広重怜。彼のピッチングはどこまで通用するか
「ピザとハンバーガーとステーキを一日5食」
2013年5月に渡米して9月まで、語学のスクールに通った。一方で施設使用を許されグラウンドで自主練して硬式に慣れた。8月のトライアウトにも合格して、いよいよ本格的な野球を始められる、と勇み、リリーフとして勝ちゲームの終盤を任されることもあったという。1年間、地元の大学生と2人部屋、学生寮で自炊をしたものの、その時期は辛かった。
「最初は適当にボディランゲージをしましたが、1カ月過ぎて、真面目な話をしようにも英語が出てこなかった」
その一方で食事は好みに合った。
「ピザとハンバーガーとステーキを一日5食、食べてました。学校のカフェテラスでは野球部は割引が効いた。食費免除の選手と一緒に行って、少し分けてもらったりもしました」
それもあってか、高校3年生で60キロだった体重は大学に入って1年間で12キロ増えた。それに伴って球速も高校3年で135キロだったのが、大学1年9月の試合で89マイル、143キロぐらいにまで伸びた。これまでしなかった筋トレをアメリカで始めて基礎体力も上がったのだ。
野手はレベルが高かったが、ピッチャーは8、9人ほどの在籍で、狙い目のレベルだった。すると2年の2~3月にNCAAのコーチ、スタッフにアピールする機会がに恵まれ、そこで145キロが出た。“学費免除の話もあって、いいところに行ける”とまで言われたそうだ。
肩を壊して帰国、税理士を見据えて社会人入試
しかし、調子にのってました、と広重は当時を悔やむ。
「寒くてグラウンドで出来ない日が続いていたんですが、その日は雪がやんでいて、キャッチボールしようと。勇んで遠投したら肩が抜けた。2カ月ぐらいボールが握れなくなりました」
ニューヨーク州の連盟からのアプローチなど、好条件の話すべてがとん挫する。苦渋の決断をして、日本に戻ることになった。
2016年3月に帰国すると、父が経営する税理士事務所で働いた。肩を壊して野球はできなかったが、初動負荷トレーニングを始めてみた。イチローが取り入れて成果を上げたもので、トレーニングの拠点である鳥取で研修を受けたトレーナーが大宮の系列ジムにいた。
「プロに行くというイメージはなかったんですが、野球をもっとやりたかった。草野球チームでやってみると、120キロぐらいに戻った」
元々はメジャーリーガーになりたい壮大な夢があった。日本は年齢で区切られがちだが、メジャーは年齢を問わない。まずは日本で実績を作っていかなければならないと考えた。
それと並行して、税理士になることも踏まえて4年制大学を探した。アメリカで取った60単位を移せて家からも通えることを踏まえて、国立の埼玉大を税理士事務所勤務という社会人入試で受験、見事合格したのだ。