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【追悼】「リバプール復興の始まりはウリエの監督就任だ」名DFキャラガーが天国の名伯楽に捧げる秘話と「一生の思い出」
posted2021/05/15 17:01
text by
フィリップ・オクレールPhilippe Auclair
photograph by
Getty Images
昨年の12月14日に届いた、ジェラール・ウリエ他界の悲報。故人を偲ぶインタビューを担当することになった私が、最初に話を聞いた元リバプール選手の1人にジェイミー・キャラガーがいる。
地元のクラブに現役生活のすべてを捧げた元DFは、自身にも多大な影響を与えたという恩師への思いを熱く語ってくれた。
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あそこまで仕事に打ち込む監督を他に知らない
ジェラールは、この先も世界中でサッカーに携わる人々の心の中に生き続けるさ。あの情熱と優しさに触れれば、誰だって惹きつけられる。
UEFAにも関わっていて、傘下にアメリカやヨーロッパのクラブを持つレッドブル社でもサッカー関連の要職に就いていただろう? レッドブル・ザルツブルクでプレーしていたサディオ・マネやナビ・ケイタがいるから、現在のリバプールにも通じていた。
普段、『フットボール・マン』という言葉が軽く使われすぎているように感じるけど、ジェラールの場合は特別。本当に相応しい。サッカーのために生きているような人だった。監督としてだけじゃない。フランスのサッカー協会でテクニカル・ディレクターを務めていたこともあれば、UEFA技術委員会で仕事をしていたこともあったように、常にサッカーの世界に身を置いていた。それも単なる識者としてではなく、サッカーに惚れ込んでいる人間として。その愛情は、どの国の、どの職場でも感じ取れたと思う。
あそこまで仕事に打ち込む監督を、俺は他に知らない。
どんな些細な点も見逃さずにこだわる。熱血監督とは言えないけど、“熱中監督”かな。1日中サッカーを観て、サッカーの話をしていたい。そんな感じだった。
実際は、かなり辛い仕事だったはずなんだ。まず当時のリバプールには、外国人を監督として素直に受け入れる土壌がなかった。今では珍しくも何ともないけれど、ジェラール以前の監督は1人残らずイギリス人だったから、就任には批判の声もあった。
世間は、外国人路線になびいただの、伝統の“ブート・ルーム文化”(スパイク保管用の小部屋がコーチ陣の非公式会議室になった、名将シャンクリー時代以来続いていた)を捨てただのと言われていたからな。
しかも、ジェラールが就任した当時のリバプールは昔のように国内外で優勝が当たり前と言われるような状態じゃなかった。少なくとも就任前の5、6年間は、間違いなく勝者のメンタリティを忘れかけていた。
そんなチームだったから、新監督が変化させないといけない点が山ほどあったはずだ。ちょうど、サッカー界自体が新しい時代に入りかけていた時期でもあった。スポーツサイエンスやスポーツ栄養学の導入とか、練習施設の近代化とか。リバプールの場合つい最近(昨年11月)新しいトレーニングセンターに移ったばかりだけど、構想を立ち上げたのはジェラールだった。