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やんちゃでケンカに明け暮れ、高校1カ月で退学の男がカズとW杯へ… 日系ペルー人3世・森岡薫の人生を変えた“21歳の個サル”
text by
工藤拓Taku Kudo
photograph byYUTAKA/AFLO SPORTS
posted2021/05/09 17:01
フットサルW杯メンバーになった当時の森岡薫と三浦知良
いつクビになってもいいように、荷物は常にまとめてあった
「自分は外国籍だったので、結果を出したいならもっとすごい外国人を呼んで、切るのは俺だろうなってプレッシャーが毎年ありました。リーグで勝たなきゃいけないというよりも、まず自分の居場所を確保しなきゃいけない。いつクビになってもいいように、荷物は常にまとめてあったんですよね。いつでも引越しできるように。でも、そうはさせないって言いながらやっていました」
日本唯一のプロクラブである名古屋にて、森岡はトップレベルの外国人選手たちに自身の居場所を奪われぬよう、自らの価値を証明し続ける必要があった。その過程でチームはFリーグ9連覇を成し遂げ、自身はリーグMVPを4度、得点王を4度受賞。名実共にトッププレーヤーの地位を確立した。
「名古屋に行って成長したと思いますよ。選手としても、人としても。すごく自信もついて、これから自分が日本を代表する選手になっていかなきゃって。ただ、まだ外国人枠だったから、日本代表は遠い夢でしたけどね」
2度の「不許可」。厳しかった帰化への道のり
日本代表でのプレーを意識し始めたのも、名古屋への加入がきっかけだった。
「名古屋から毎回5、6人、代表選手が出ていたんですよ。僕は毎回その選手たちを見送る側だった。頑張ってね、怪我しないようにねって言いながら、『いつか自分もそこにたどり着けるといいな』って思っていました」
日本では二重国籍の保有が認められていない。日本国籍を取得するためには母国ペルーの国籍を手放す必要があったが、迷いはなかった。
「大きな決断ですけど、はっきりしていました。自分の人生を変えてくれたのはフットサル。変えてくれた場所は日本だった。だから何らかの形で日本に恩返ししたいなって。自分をフットサル選手にしてくれただけでなく、ペルーでテロやクーデターが起きて、国がめちゃくちゃになった時に家族を受け入れてくれた国なので」
日本のために何ができるか。そう考え、自分にできるのは日の丸を背負って戦うことだけだという結論に至った森岡は、すぐに帰化申請の手続きを開始する。
しかし、帰化への道のりは想像以上に厳しかった。1回目は2006年。2回目は2008年。法務省の返答はいずれも「不許可」だった。