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やんちゃでケンカに明け暮れ、高校1カ月で退学の男がカズとW杯へ… 日系ペルー人3世・森岡薫の人生を変えた“21歳の個サル”
text by
工藤拓Taku Kudo
photograph byYUTAKA/AFLO SPORTS
posted2021/05/09 17:01
フットサルW杯メンバーになった当時の森岡薫と三浦知良
「このままだとろくな大人にならない」
その結果、高校はわずか1カ月で退学。以降も建築系のアルバイトなどをしながら"やんちゃ"に明け暮れる日々が続いた。
そんな森岡に転機が訪れたのは21歳の時だ。
「考え方が少しずつ大人になって、『このままだとろくな大人にならない』って感じはじめて。自分が今まで何をしていて一番幸せだったかっていうのを振り返ると、やっぱりストリートサッカーだったんですね。やっていて一番楽しいし、本当に毎日、日が暮れるまでやっていたので。それを思い出すと、急にサッカーをやりたくなったんですよ」
居ても立ってもいられなくなり、思いつくままにサッカー雑誌を立ち読みし、メンバー募集の告知を探した。そこで目に入ったのが「フットサル個人参加」、いわゆる“個サル”の広告だった。
「ミニサッカーっていう認識しかなかったんですけど、『フットサル』っていうワードは聞いたことがあって。ちょうど6月で、久々にボールを蹴って汗かいたことをすがすがしく感じて。めちゃめちゃ気持ちいい、これ最高だなあって感覚を覚えて、そこの個サルに毎回行くようになったんです」
そこから森岡はフットサルの世界にどっぷりとはまっていく。
「手取り27、8万の給料が8万円に」
個サルやワンデー大会に出場する中で関係者の目に留まった森岡は、23歳で神奈川県リーグ所属のブラックショーツへ入団。そこで関東リーグ昇格に貢献すると、25歳で名門ファイルフォックスから声がかかった。
並行してプロ選手として食っていく夢を膨らませた森岡は、通訳として働いていた不動産会社からの退社を決意する。自ら定めた挑戦の期限は2年。その間はサッカースクールでアルバイトをしながらプレーに打ち込んだ。
「24の時に不動産屋を辞めて、手取り27、8万の給料が急に8万円になったんですよ。でもトレーニングに励む日がたくさんできたので、お金はきついけどプロになるために我慢しようと。ちょうど1年半後、自分が決めた猶予まであと半年で名古屋の話が来ました」
2006年、森岡は日本初のプロフットサルクラブ、大洋薬品/BANFF(現名古屋オーシャンズ)と念願のプロ契約を結んだ。
しかし、夢の実現に喜んでいる余裕はなかった。手にした環境を維持するための戦いがはじまったからだ。