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昭和の大人気ボクサー“拳聖”ピストン堀口、鉄道事故死の謎「自殺説」「他殺説」?…深夜の東海道線で迎えた36年の最期
posted2021/04/25 11:02
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph by
AFLO
ノーガードで前進あるのみというピストン堀口(堀口恒男)のファイトスタイルが、戦前の軍国主義と合致していたことは、#1で触れた。
しかし、敗戦国となった日本は、軍国主義を言われるがままに脱ぎ捨て、民主主義を性急に纏うほかなかった。軍国日本のアイコンだったピストン堀口は御役御免となるはずだったが、意外にもそうはならなかった。
通算400試合以上という説も
実のところ堀口には、軍国主義も民主主義も関係がなかった。スター不在のこの時代、知名度の高い彼の存在は興行に必要不可欠だったのだ。戦前以上の過密スケジュールが圧し掛かり、時には自らが興行を買ってプロモートをすることもあった。それでも、メインイベントには自らリングに上がるしかない。そうしないとチケットが売れないからだ。
1946年7月6日には、かつて「世紀の一戦」と謳われた笹崎僙との再戦が、後楽園球場を舞台に、前回より1万人多い2万5000人(主催者発表)の大観衆を集めて行われた(結果は引き分け)。
これを「引退への花道」と見る向きもあったが、その後も彼は試合に出場し続けた。経済的な事情があったのかもしれない。戦前のように「山口組が興行権を云々」という文脈では語れなくなっていた。敗戦はそれだけ日本社会の多くの秩序を(一時的にではあるが)瓦解せしめたのである。
ノンフィクション作家の山本茂はこの時代の堀口の試合を指して「真剣勝負ならざる草試合」が含まれたことを繰り返し書く。無理もない。ピストン堀口は連日連夜、試合に引っ張り出されていた。176戦とされる通算戦績だが、実際は400戦は超えているという説もある。
1カ月に15試合以上出た噂も…
芥川賞作家にして政治家としても顕職を飾った石原慎太郎は著書『わが人生の時の人々』(文春文庫)で、少年時代に初めてボクシング観戦をした日のことを克明に書き残している。場所は後楽園球場。メインイベントに登場したのが《すでに伝説的存在だった》ピストン堀口だった。