ボクシングPRESSBACK NUMBER
“4万円”チケットがダフ屋で“60万円”に…戦前の異常人気ボクサー、“拳聖”ピストン堀口とは何者だったのか?
posted2021/04/25 11:00
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph by
KYODO
昨秋上梓した『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)で筆者は、主人公野口修の父、野口進についても詳述した。草相撲力士から柔拳試合をへて拳闘家になった“ライオン”野口進は、右翼団体の構成員としての顔も持っていた。
その野口進が、元首相の若槻礼次郎を襲撃し逮捕、収監され現役から離れると、入れ替わるように拳闘界のエースとなったのがピストン堀口(堀口恒男)である。
今更言うまでもないことだが、ピストン堀口は、戦前から戦後にかけて日本中を沸かせた、押しも押されもせぬ大スターである。しかし、そんな彼の現役生活も野口進と同様、複雑な背景と大いなる矛盾を抱えていた。そしてそれは、黎明期の拳闘界全体が抱えるべき問題であり、戦前から敗戦までの日本を覆った闇でもあった。一体それは何か。彼の足跡は現在のボクシング界、興行界に何を訴えているのか。
そもそも、ピストン堀口とは何者だったのか。夭逝した“拳聖”の数奇な生涯を追ってみたい。
18歳で3万人を集めた…ピストン堀口とは何者か
ピストン堀口こと堀口恒男は、1914年10月7日、栃木県芳賀郡(現・真岡市)に生まれた。
旧制真岡中時代は柔道で鳴らし、柔道部主将としていくつかの大会に出場、母校を優勝に導いてもいる。ある日、近隣の芝居小屋で催された拳闘のお披露目会に足を運んだことが堀口の人生を変えた。
「誰か飛び入りで戦ってみたい者はいないか」という主催者である渡辺勇次郎の呼び掛けに応じ、壇上に進み出たのだ。このとき堀口の相手を務めたのが、のちに日本のボクサーで初めて世界ランカー(世界バンタム級6位)となる徐廷権だった。素人が軽くあしらわれただろうことは想像に難くない。負けん気の強い堀口は、これを機に柔道から足を洗い拳闘の道に進むことを決めたのである。
1932年4月、17歳で上京した堀口恒男は渡辺勇次郎の主宰する日本拳闘倶楽部(日倶)に入門。アマチュアでキャリアを積んだのち、翌年3月3日、渡辺政男相手に47秒KO勝ち。以後、8戦8勝の快進撃を重ね、新人ながら読売新聞主催のビッグイベント「日仏対抗戦」フェザー級日本代表の座を勝ち獲った。ちなみにこのとき、ウェルター級日本代表となったのが、野口進である。新旧エースの揃い踏みとなるが、この時点では横綱(野口)新入幕(堀口)くらいの差があったと見ていい。