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昭和の大人気ボクサー“拳聖”ピストン堀口、鉄道事故死の謎「自殺説」「他殺説」?…深夜の東海道線で迎えた36年の最期
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byAFLO
posted2021/04/25 11:02
戦前~戦後の大スター拳闘家・ピストン堀口(堀口恒男)
石原は《ラッシュに次ぐラッシュの左右からのボディブローは、戦争の空白からすでに盛りのすぎた体力からしてもう見ることもあたわず》と、堀口が老体に鞭を打ちながらも、どうにか往年の勇姿を見せようともがく姿を書き留めながら、《その代わり野球のピッチャーのワインドアップしてからくり出すいわゆるテレホンパンチが場内を沸かせていた》と、試合の情実がいかなるものだったか暗喩している。
また、ボクシング評論家の草分け的存在である郡司信夫は、彼のライフワークとなる回想録にて、晩年のピストン堀口のキャリアについて次のように書いている。
《新人の輩出のない戦後において、ピストン堀口の名は絶対であった。ピストンが出場しなかったら、ファンはまったくあつまらない。とくに地方の興行では、これがひどかった。いきおい、ピストンは試合過多になった。
七月にだけ例をとっても、
六日 笹崎僙 後楽園球場
十日 大山猛 横浜
十四日 松本圭一 後楽園球場
十八日 野村文治郎 富岡
三十日 野村文治郎 九段
と、一カ月に五回も出場している。ひどい月は一か月に一五回以上もでたとうわさされた》(『ボクシング百年』時事通信社)
大山倍達と「草試合」
ちなみに、ピストン堀口が1946年7月10日に横浜で対戦した「大山猛」なる選手は、のちに極真空手を創設する大山倍達のことである。ノンフィクション作家の小島一志は、著書『大山倍達正伝』(小島一志・塚本佳子著/新潮社)で、「試合はエキジビションとして行なわれたもので、公式試合ではありません」というピストン堀口の長男、堀口昌信の証言を引き出している。ここで言う「エキジビション」とはすなわち、「草試合」のニュアンスと判断すべきかもしれない。
晩年のピストン堀口の姿から想起されるのは、全盛期に日本中で試合を行い、国民的スターとなった沢村忠のことである。拙著でも書いたことだが、沢村もこの時代の堀口同様、新聞や雑誌にも載らない試合をいくつもこなしていた。往年の沢村忠をよく知る古い関係者は、「地方のプロモーターから『興行を売ってくれ、売ってくれ』って発注があった。そのほとんどすべてに応えていれば、必然的にそうなる。いちいちマスコミにも発表しない。中には内々でやるような大会もあった」と明かした。この時代のピストン堀口と全盛期の沢村忠の姿はまさに相似形である。
35歳での引退「みじめなピストン堀口は見たくない」
それでも、衰えを隠せないピストン堀口に引退を迫る声は日増しに高まった。「ピストン生みの親」とも呼ぶべき読売新聞に次のコラムが載ったのは、その一例である。