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昭和の大人気ボクサー“拳聖”ピストン堀口、鉄道事故死の謎「自殺説」「他殺説」?…深夜の東海道線で迎えた36年の最期 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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posted2021/04/25 11:02

昭和の大人気ボクサー“拳聖”ピストン堀口、鉄道事故死の謎「自殺説」「他殺説」?…深夜の東海道線で迎えた36年の最期<Number Web> photograph by AFLO

戦前~戦後の大スター拳闘家・ピストン堀口(堀口恒男)

《いつまでも現役の地位に恋々としていると、汚名を残すばかりである。

 ボクシングのピストン堀口は昔はたしかに名選手であった。しかし最近の試合態度をみていると、往年のはつらつさはなく、もうそろそろリングを退いてもよいのではないかと見る人も少くない》(1950年4月8日付/読売新聞)

『ラッシュの王者―拳聖・ピストン堀口伝―』(文藝春秋)の著者である作家の山崎光夫は《負けるみじめなピストン堀口は見たくないと、ファンも次第に離れてきた。同情が非難に変り始めた》と当時の状況を容赦のない筆致で書く。

 その反面、当の堀口本人は「物見遊山で、地方巡業を楽しんでいた」という話もある。元TBS運動部長の森忠大は、故郷の群馬にピストン堀口一行が来た際「町を挙げてのお祭り騒ぎに、堀口は地元の興行師や有力者らに歓待されて、それは心底楽しんでいる風情だった」と筆者に語った。それはそれで存外事実かもしれない。

 借金はあったというが、試合に出さえすれば相応の金は稼げたはずで、経済的に困窮することはまずなかった。そうでなくても国全体が貧しかったのだ。食えない時代なのだ。ノンフィクション作家の山本茂は「拳闘で十人掛けをやってほしい」という興行師の要求を堀口は快諾したと書いている。

 そんなピストン堀口にもグローブを置く日が来た。1950年4月22日、小山五郎を相手に判定負けを喫すると、銀座8丁目の喫茶店で現役引退を表明した。「四十の堀口、五十の堀口はいないことが判りました」と集まった記者に吐露した。35歳になっていた。

ナゾの鉄道事故死「自殺説」と「他殺説」

 堀口恒男としての第2の人生がようやく始まった。引退の少し前から銀座の探偵事務所に勤務している。部署は渉外・営業。顔が知られていることが生かせると考えたのかもしれない。

 また、東京都淀橋区(現・新宿区)に「ピストン堀口拳闘会」を開設してもいる。自らは会長でもオーナーでもなく師範に就いた。名義貸しとも取れるが、後進の育成にも意欲を見せていた証左とも言える。

 会社勤務と道場師範──充実した日々をすごしていたはずだ。真剣勝負の緊張感も、地方巡業の徒労感も過去のものとなりつつあった半年後の10月24日、悲報が日本中を駆け巡った。

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