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11年前『情熱大陸』で滝から滑落、死にかけて…服部文祥52歳の“退屈な毎日”「登山はズルい、廃村暮らしはズルくない?」 

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稲泉連

稲泉連Ren Inaizumi

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photograph byNanae Suzuki

posted2021/04/10 17:03

11年前『情熱大陸』で滝から滑落、死にかけて…服部文祥52歳の“退屈な毎日”「登山はズルい、廃村暮らしはズルくない?」<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

服部文祥さんと愛犬ナツ

服部 うん、そこが難しい問題でさ。以前も今もずっと考え続けている。

 というのも、結局は俺のやってきたサバイバル登山も米や調味料は持っていくわけだし、発展形の狩猟サバイバルに至っては鉄砲そのものが「ずる」なわけだから。

 米と調味料があることで「自給自足」というテーマが最初から濁っているし、そもそも2週間だけで帰ってきてしまうのは矛盾でしかないよね。それに自分の行為を、書いて、発表するという意識も邪魔になる。2010年に『情熱大陸』に出演したときなんかは、カメラの前でサービスをしようという気持ちがやっぱりあって、滝から滑落したこともあった。あのときは本当に死を意識したよね……。

 それでもなるべく装備を減らして、食料もできるだけ現地調達をするという手法には、理屈として可能性を感じてきた。それに、何よりやっていて楽しかったんだ。例えば、そうして山に入っていると、「今回は純度が高かったな」「透明感があったな」と感じる瞬間が確かにあるんだよね。特に釣りを中心に登る夏は防寒具も必要ないから、身一つで山に入っている感覚が強くなる。

 去年の夏もそうだった。南アルプスをずっと一人で歩いたんだけれど、ときどき出る稜線にあんなに人のいない南アルプスは初めてでさ。新型コロナの影響でハイカーがいなくなって、山が本当に静まり返っていたなあ。まるで人間がいなくなった後のディストピアの世界を、自分が一人で歩いているような気分になったよ。

 ここ数年、そんななかでサバイバル登山の「意味」がより強く意識されるようになって、もともと抱えていた矛盾とジレンマが自分の中でより膨らんでいった。サバイバル登山にも「ずるさ」を強く感じ始めた、ともいえるかな。

 旅はどこまでいっても旅であって、山に登った後も人生は続く。映画の中の人生が結末の後も続くように。だからこそ、いま、俺は「小蕗」での「生活」に可能性を感じているんだ。小蕗での日常にどっぷりと浸かる日々が、サバイバル登山でも感じ始めたジレンマを乗り越えられる一つのきっかけになるかもしれない、って。

 小蕗での生活について、俺は「退屈」だと言ったよね。でも、いまはその「退屈」の先に何があるのかを知りたい。だから、五右衛門風呂を沸かしながら「これでいいんだ」と一生懸命に思い、ときにはふとむなしさを感じながら、今はその退屈と向き合っているところなんだ。

(【初回を読む】「山はお金がかからない」“サバイバル登山家”になって22年…なぜ服部文祥は廃村暮らし(電気なし、ガスなし、水道なし)を選んだか へ)

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