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「セナとプロストを“操る”のは難しかった?」鬼才ゴードン・マレーが明かす、33年前最強マクラーレン・ホンダのウラ側 

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田邊雅之

田邊雅之Masayuki Tanabe

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posted2021/03/05 17:05

「セナとプロストを“操る”のは難しかった?」鬼才ゴードン・マレーが明かす、33年前最強マクラーレン・ホンダのウラ側<Number Web> photograph by AFLO

アイルトン・セナ(左)とアラン・プロスト。1988年シーズン、セナが8勝、プロストが7勝を挙げ驚異的な成績を残した

「あの頃、世間の人たちからは『プロストとセナと一緒に仕事をするのはさぞかし大変でしょう?』とよく言われたよ。でも、それは私にとって嬉しい悩みだったんだ。レースに勝てるドライバーが2人もいるわけだから。

 セナとは最終的にすごく親しくなった。彼は特別な人間だったね。プロストとは最初の頃、ぎくしゃくしていたんだが、時間が経つにつれて関係は良くなっていったんだ。

 ただし私はプロストとセナ、それぞれのマシンを担当するレースエンジニアのグループを管轄しながら、プラクティスセッションやレースが終わる度に、必ず全員が集まるように義務付けた。私が加入する前のマクラーレンでは、ドライバーが別々に行動して、担当のレースエンジニアと独自に作業をするのが当たり前になっていたからね。私はこのやり方を変えただけでなく、両方から上がってきた情報を共有するようにもしたんだ。

 たしかにドライバーたちはこのやり方を嫌がったし、特にタイヤの情報に関しては(自分が有利に立つために)互いに相手を出し抜こうとし続けた。

 でも私がこの改革をすることによって、チームが手にする情報量は2倍に増えた。つまり1時間のプラクティスセッションをしても、2時間分の情報を手にできるようになった。それでチームは、さらに結果を出せるようになったんだ」

名機「MP4/4」、16戦15勝の理由

――そういう努力が報われ、最終的にマクラーレン・ホンダは16戦15勝という金字塔を打ち立てます。あなたが手掛けたMP4/4、ホンダのエンジン、そしてセナとプロストという様々な勝因があったわけですが、最も重要な要素はどこにあったとお考えですか。

「鍵を握っていたのは信頼性さ。私が加入した頃のマクラーレンは、発生したトラブルをきちんと記録して、改良していくという習慣がなかった。前任者のジョン・バーナードはレース後にミーティングをやる習慣がなかったため、スタッフはどんなトラブルが起きたかを個人的に覚えているに過ぎなかったんだ。

 だから私はまずスタッフに聞き取り調査を行って、86年シーズンにはテストやプラクティスセッション、レースで合計79のトラブルが起きていたことを突き止めた。これを踏まえた上で冬のシーズンオフには、新たなシステムを持ち込んだんだ。トラブルが起きた時にはきちんと記録し、その後のフォローアップをしながら、次のテストやレースまでに確実に修正しておくようにする。要はブラバム時代と同じように、クオリティコントロールのようなことをやり始めたんだ。

 結果、87年シーズンはトラブルが79から18に減ったし、ホンダと組んだ88年シーズンには、実質的にゼロにまでなった。

 我々が強かったのは、単にマシンの性能が高かったからじゃない。信頼性を高めていくシステムを導入したメリットも大きかったんだよ」

想像を絶する日々

――とは言えシーズン中は、レースやテストに立ち会うだけでなく、デザインオフィスでマシンを設計していく重責も担われていました。まさに想像を絶するほど忙しい毎日を過ごされていたのではないですか?

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