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【78歳に】アントニオ猪木は“炎上上等”「媚びるくらいなら怒りを」、新宿で襲撃…「ハプニングこそ我が人生」
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
photograph byMakoto Kenmizaki
posted2021/02/20 11:02
燃える闘魂・アントニオ猪木。78歳になった今もプロレス界に及ぼす影響力は計り知れない
馬場さんを否定するワケは、“力道山の遺伝子”が…
<名言3>
馬場さんを否定するのは、あの人には力道山のそういう遺伝子が残ってないと思うからです。
(アントニオ猪木/Number410号 1997年1月16日発売)
◇解説◇
プロレスこそ最強の格闘技と考える猪木。人生において最大のライバルと言えばやはり、ジャイアント馬場だろう。
師匠は同じ力道山でありながら、2人は対照的な道を歩んできた。かたや読売巨人軍からの転向組だった馬場はエリート教育を受けたのに対して、ブラジルから“逆輸入”された猪木は、理不尽の連続で育てられたというのはあまりにも有名なエピソードだ。
しかし、その苛烈な日々が猪木の反骨精神に火をつけたのは間違いない。
馬場との「BI砲」で人気を博しながらも1972年に新日本プロレスを旗揚げ。新日の代名詞である「ストロングスタイル」を追い求め、アクラム・ペールワンやウィリー・ウィリアムスらとの異種格闘技戦を実現。一方でタイガー・ジェット・シンやハルク・ホーガンといった外国人プロレスラーをスターダムに押し上げるなど、プロレスの見せ方に革新をもたらそうとし続けた。
もちろん馬場の「王道プロレス」のもとでも、ジャンボ鶴田や三沢光晴、川田利明、小橋建太、田上明らの名レスラーが育っている。ただ、猪木はきっと自らのアイデンティティーを強く打ちだすためにも、ライバル馬場を否定することによって、力道山イズムは我にありと主張したかったのだろう。
ちなみに「遺伝子」は猪木がこのんで使用する言葉だが、10年後には「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」という名称で新たな団体を立ち上げるに至った。