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初の日本ダービーから2年で取り壊し…東京の“消えた競馬場” 目黒のド真ん中にあった「目黒競馬場」今は何がある? 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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photograph byMainichi/AFLO

posted2021/02/09 11:01

初の日本ダービーから2年で取り壊し…東京の“消えた競馬場” 目黒のド真ん中にあった「目黒競馬場」今は何がある?<Number Web> photograph by Mainichi/AFLO

大正時代(1913年)の目黒競馬場。コイワイという馬が1着になったレース

 競馬場のおおよそ中央を垂直に貫く形になっている元競馬場通りを渡ってそのままさらに面影路地を進む。まもなくするとその面影路地の向こう正面の直線はぷつりと途切れてしまった。先には大きなマンションや学校などが建ち並ぶ。大きな施設を建設するにあたって、細い面影路地はすべて取り壊されてしまったのだろう。

 そのマンションや学校などがある一角に、元競馬南泉公園という小さな公園があって、さらに目黒区立不動小学校の校門の脇には「目黒競馬場跡」と書かれた説明の碑が設けられていた。

 目黒競馬場は、1907年に完成した競馬場だ。東京都心に近く、実に便利な競馬場だっただろう。が、開場1年後の1908年には馬券の発売が禁止されてしまい、競馬暗黒時代に入る。その時期を、目黒競馬場では池上にあった池上競馬場などと合併する形で生き延びて、1923年に現金払い戻しの馬券発売が許可されると再びお客を増やし、1932年のダービーで頂点に達した。当時の映像を見ると、満員のお客がスタンドを埋めているのがよくわかる。

 一方で、この頃には田園地帯だった目黒にも宅地化の波が押し寄せていた。1923年には競馬場の少し南に目黒蒲田電鉄(現在の東急目黒線)が開通し、関東大震災をきっかけとした都市近郊への移住加速も相まって郊外の発展が飛躍的に進んでいった。東京の人口が爆発的に増えていたことも関係しているのだろう。

 そうした中で、山手線のすぐ外側にあるような好立地の目黒競馬場周辺にもあっという間に宅地化の波が押し寄せ、広大な競馬場は邪魔者になっていたのだ。結果、ダービーが目黒競馬場で行われたのはわずか2年、1934年に東京競馬場に移転。その後、またたく間に競馬場跡地は開発されて姿を変えてしまった。けれど、競馬場が町から消えて約90年が経った今でも、通りの名やバス停の名、そして目黒通りに佇むトウルヌソルと、あちこちに競馬場の歴史が刻まれている。こういった古い競馬場や古い野球場などの跡地は、せいぜいひとつの記念碑で歴史が片付けられてしまって地名にも何にも残っていないことが多い。だから歴史の残り香を探すのに難儀するものだ。ところが、鉄火場としての競馬場をイメージすればそれとは縁遠そうな目黒の住宅地では、競馬場時代の歴史が大切に伝えられているのであった。

(写真=鼠入昌史)

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