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【新日本との引き抜き合戦】「馬場は半殺しにされるんじゃ…」82年2月4日、伝説のジャイアント馬場vsハンセン
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2021/02/04 06:00
ジャイアント馬場(左)と全日本プロレスは、スタン・ハンセンの引き抜きを機に苦境を脱する
ハンセン戦がなければ馬場のその後は変わっていた
その後も馬場は、ハンセンを有効に使い、全日本を復興に導いていく。引退フィーバーに沸いていたテリー・ファンクとハンセンの抗争で観客動員とテレビ視聴率を上向かせ、ジャンボ鶴田と天龍源一郎の“鶴龍コンビ”も、ハンセン&ブルーザー・ブロディの対抗馬となる日本人新エースとして育てていった。
そうすることで、鶴田&天龍に自然な形でメインイベンターの座を譲りながら、自らは全日本でプロモーターとしての実権を握り続けた。つまり、ハンセンを引き抜き、名勝負を展開し、経営を改善させたことは、レスラー、経営者両面で追い込まれていた馬場にとって、一発逆転のホームランとなったのである。
ジャイアント馬場は、99年1月に亡くなるまで“生涯現役”を貫いたが、もし82年2月4日のハンセン戦がなければ、もっと早くリングを降りていたかもしれない。そしてハンセンがいなければ、80年代、90年代の全日本はまったく違うものになっていたはずだ。
あの馬場vs.ハンセンがなければ、その後の馬場も全日本もなかった。そういった意味で、2月4日ほどジャイアント馬場の追善にふさわしい日はないのである。