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「大男が郵便局に現れた!」新丸子に伝わるジャイアント馬場“巨人伝説” 浪人期に出会っていた驚きの人物とは
posted2021/01/31 06:01
text by
高木圭介Keisuke Takagi
photograph by
Moritsuna Kimura/AFLO
秋田の八郎太郎に全国各地のダイダラボッチと、日本中に「巨人伝説」は伝わる。どれも「昔ばなし」の類いだ。筆者が生まれ育った神奈川県川崎市の新丸子(東急東横線・目黒線の新丸子駅付近)の街にも、さほど昔のことではないものの「巨人伝説」が伝わる。
「毎月、月末になると2mを超える大男が郵便局に現れては、1万5千円を新潟方面へと送金していた」
「大男はあまり外出はせず、古本屋で文庫本をドッサリと買い込むと、商店街の金物屋2階の下宿先で読みふけっていた」
「頼み込んで、商店街の草野球大会に助っ人出場してもらったのだが、元プロ野球選手なのにエラーしていた……」
「卓球センターで勝負したら、大男なのにえらく俊敏で強かった」などなど。
そう、新丸子の街に「巨人伝説」を残したのは、1月31日に23回忌を迎えた東洋の巨人・ジャイアント馬場さんである。以下敬称略。
ビルに看板には「GB」の文字が……
新丸子は東口の多摩川沿いに読売巨人軍の合宿所があったことでも知られる。筆者が少年時代を過ごした昭和40〜50年代にも、単なる住宅街かと思えば唐突にポルノ映画館やストリップ劇場、キャバレー、旅館やラブホテルなどが建ち、いわゆる「三業地」の名残があった。3つ隣駅の自由が丘で「モンブラン」といえば、もちろん栗のケーキ(発祥の地である)のことを指すのだが、新丸子で「モンブラン」といえばポルノ映画館のことを指す。そんな雑多で楽しい庶民的な街だった。
馬場は昭和34年末に巨人軍を自由契約となり、昭和35年4月に力道山率いる日本プロレスに入門。そんな不遇で不安な浪人時代を過ごしたのが、三業地の匂いが強い東口ではなく、西口の医大通り商店街にあった「金物 古林商会」2階の下宿だった。
61年前まで馬場が住んでいた金物店は現在、ビルに建て替わっている。
つい最近、現地を訪れてみたら、看板に大きく「GB」の文字を発見したので、てっきり「G(ジャイアント)B(ババ)」記念館でもできたのかと思いきや、ちょうど馬場が住んでいた2階部分がガールズバーになっていたというオチがついていた……。