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【新日本との引き抜き合戦】「馬場は半殺しにされるんじゃ…」82年2月4日、伝説のジャイアント馬場vsハンセン 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2021/02/04 06:00

【新日本との引き抜き合戦】「馬場は半殺しにされるんじゃ…」82年2月4日、伝説のジャイアント馬場vsハンセン<Number Web> photograph by AFLO

ジャイアント馬場(左)と全日本プロレスは、スタン・ハンセンの引き抜きを機に苦境を脱する

引き抜き合戦が始まり、ハンセンの移籍で決着

 ここから馬場の動きは早かった。ブッチャーを引き抜かれた2カ月後の81年7月、ザ・シークを通じて新日本のトップヒール、タイガー・ジェット・シンを日テレのプロデューサーとともに口説き落とし引き抜き。これをきっかけに、両団体による引き抜き合戦に発展する。新日本はディック・マードック、タイガー戸口らを引き抜き、全日本はチャボ・ゲレロ、上田馬之助を抜き返す。そして、この引き抜き合戦に決着をつけたのが、ハンセンの全日本移籍だった。

 ブッチャーが新日本に登場した翌月、馬場はすぐさま全日本のトップレスラー兼ブッカー(外国人レスラー招聘仲介役)であるテリー・ファンクの仲介でハンセンと会談を持っている。テリーは、もともとウエストテキサス州立大学フットボール部でハンセンの先輩であり、プロレスの師匠。引き抜くためのパイプは通じていたのだ。

「俺じゃ、物足りないのか?」

 この馬場との会談で、ハンセンは全日本移籍を決意。しかし、なぜ当時絶好調の新日本でトップに君臨していながら、わざわざ落ち目だった全日本に移籍したのか。当然、大幅なギャラアップ提示はされていたが、新日本側も引き止めのためにギャラの増額を提示しており、単純にカネだけの問題とは思えない。以前、筆者がインタビューした際、ハンセンは移籍の理由をこう語っていた。

「ブッチャーの移籍は、まったくの寝耳に水だった。あの当時の新日本は、私とシンがガイジンのトップを形成し、アンドレ・ザ・ジャイアントやハルク・ホーガンといったタレントも揃っており、会場はどこも満員だったのに、なぜ全日本から引き抜いてまでブッチャーが必要なのかわからなかった。『俺じゃ、物足りないのか?』と、トップとしてのプライドを傷つけられた思いだったんだ」

 新日本にとっては、痛恨の勇み足と言わざるをえないだろう。しかも、ブッチャー引き抜きは、全日本に打撃を与える目的でフロント主導で行われたもので、なんのビジョンもなかった。猪木はもともと新日本のカラーに合わないブッチャーをレスラーとして評価しておらず、82年1月28日に行われた初の一騎打ちも大凡戦に終わってしまう。新日本が高いカネをかけて引き抜いたブッチャーは、1年も経たぬうちに無用の長物と化したのだ。

 一方で、馬場はハンセンを引き抜く際、「キミに全日本を変えてほしい」と殺し文句を伝えている。馬場は単なる新日本への報復ではなく、旧態依然とした全日本を変革するために、ハンセンという新しい血を導入したのだ。

【次ページ】 「馬場はハンセンに半殺しにされるんじゃないか?」

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