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【新日本との引き抜き合戦】「馬場は半殺しにされるんじゃ…」82年2月4日、伝説のジャイアント馬場vsハンセン
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2021/02/04 06:00
ジャイアント馬場(左)と全日本プロレスは、スタン・ハンセンの引き抜きを機に苦境を脱する
「馬場はハンセンに半殺しにされるんじゃないか?」
そして全日本はハンセン登場で劇的に変わった。何よりも馬場自身がレスラーとして生き返った。
馬場vs.ハンセンの一騎打ちが決定した時、大袈裟ではなくファンや関係者から「馬場は半殺しにされるんじゃないか?」との声が上がった。それぐらい、当時の若いハンセンには圧倒的なパワーと勢いがあり、試合の2週間前に44歳となった馬場は、到底太刀打ちできないと思われていたのだ。
ところが、猪木vs.ブッチャーの1週間後の2月4日、同じ東京体育館で行われた馬場vs.ハンセンの初対決は、予想をはるかに上回る大激闘、名勝負となり、「馬場復活」を大いにアピールすることに成功した。
そして馬場vs.ハンセンは、82年度の東京スポーツ主催「プロレス大賞」で年間最高試合に選ばれる。また、馬場vs.ハンセンの3日後、新日本は全日本へ停戦を申し入れている。2月7日、ホテル・ニューオータニ別館で馬場・猪木会談が行われ、両団体の引き抜き防止協定が締結されたのだ。こうしてハンセン獲得によって、引き抜き合戦に勝利した全日本。これは馬場個人にとっても大きな意味があった。
現役レスラーとしての立場すら危うかった馬場
じつは81年12月、馬場は全日本の社長の座から降ろされている。親会社の日本テレビは、経営テコ入れのため役員だった松根光雄を出向させ社長とし、馬場は会長に棚上げされた。そして新社長・松根は、馬場に引退を勧告し、新エースをジャンボ鶴田とする世代交代を促してきたのだ。
この1年前、プロ野球界では巨人軍の長嶋茂雄監督が事実上解任となり、王貞治が引退している。馬場の勇退と全日本の若返りも、同じ読売グループからの“至上命令”だったことがうかがえる。
この時期、経営権、マッチメイク権を奪われ、現役レスラーとしての立場すら危うくなった馬場は、なんとしてもハンセン戦を成功させ、レスラーとプロモーター両面で、その力を証明する必要があったのだ。