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【伝説の1992年日本シリーズ】第7戦の朝、ヤクルト・岡林と西武・石井が「身体は限界」のなか考えていたこと 

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長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

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photograph byNaoya Sanuki

posted2021/01/26 11:01

【伝説の1992年日本シリーズ】第7戦の朝、ヤクルト・岡林と西武・石井が「身体は限界」のなか考えていたこと<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

西武・石井丈裕とヤクルト・岡林洋一は日本一をかけた一戦を前に何を考えていたのか

日本一の懸かった第7戦のマウンドに自分が指名された

 この年のペナントレースは自分が中心となってローテーションが回っていたという自負があった。15勝3敗という文句のない成績で沢村賞にも輝いていた。

 こうして迎えた日本シリーズ。3勝1敗と有利な展開となったものの、気がつけば3勝3敗の五分となっていた。日本一の懸かった第7戦、そのマウンドに自分が指名された。

 1勝3敗の土壇場から、劇的な勝利で対戦成績をタイに持ち込んだヤクルトには勢いがあった。けれども、10点奪って大勝した翌日に打線が沈黙するようなことはよくあることだった。「明日の試合は明日になってみなければわからない」、そんな思いを抱いていた。

 早稲田実業学校時代には荒木大輔の控えだった。法政大学時代には阪神タイガースに入団した猪俣隆がエースの座に君臨していた。マスコミ上では常に「二番手の男」と称されていた。周りがどう言おうが別に気にしていなかったけれど、プロに入り、常勝西武の一員となった今、最後の最後の大一番に自分が指名された。

 石井はこれまで、山本浩二監督率いる広島東洋カープと対戦した1991(平成3)年の第2戦、そして第6戦の3度、日本シリーズのマウンドに上がっていたが、いずれもリリーフ登板だった。しかし、今回は堂々の主軸としてシリーズに臨んでいた。ずっと抱いていた、「日本シリーズで先発したい」という思いがようやく叶った。

 意気に感じないはずがなかった。

(寝られないのなら、別に寝なくてもいいだろう……)

 ある種の開き直りとともに、石井は朝を迎えた。

「中4日だと身体が全然動かないんです」

「本当はゆっくり寝て、スッキリ起きたかったんですけど、寝られなかったですね、緊張して。前夜は宿舎の周りを1時間ほど散歩してから床に就きました。あの頃は中5日、あるいは中6日で投げるのが普通でした。もちろん、シーズン中にも何度か中4日で投げたことはあります。でも、やっぱり疲労度は全然違います。中4日だと、何て言うのか、時差ボケの中で投げているような感覚なんです。身体が全然動かないんです。何か1日中、ボーッとしているような感じなんです。この日、ヤクルトは岡林君が中3日で投げるだろうと言われていました。中4日でこんな感覚なのだから、中3日だともっと身体は動かなかったはずです。ただ気力だけで投げるしかない。そんな状態だったんじゃないのかな? 僕としては、とにかく自分のピッチングをするだけ。そんな思いでした」

【次ページ】 岡林からそう簡単に点は取れない…西武・森の苦悩

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