F1ピットストップBACK NUMBER
現役で“SRS校長”佐藤琢磨43歳が語った「自分がステアリングを置くとき」と角田裕毅に教えたいこと
posted2021/01/22 06:00
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph by
Getty Images
いまから25年前の95年に日本に画期的なシステムが誕生した。「鈴鹿サーキットレーシングスクールフォーミュラ(SRS-Formula)」だ。運営しているのは鈴鹿サーキットを所有するモビリティランドだが、それを全面的にバックアップしているのはホンダだ。
80年代後半から90年代前半にかけて、マクラーレンと組んだホンダがF1の世界では大活躍していたが、日本人ドライバーで世界のフォーミュラレースで頂点を極めた者はいなかった。SRS-Formulaは、92年に開校した「鈴鹿サーキットレーシングスクールジュニア(SRS-J)」、93年に開設された次世代のドライバー育成機関「鈴鹿サーキットレーシングスクールカート(SRS-Kart)」に次いで設けられた日本で唯一ともいえる本格的フォーミュラ・ドライバー育成を目的としたレーシングスクールだった。
97年にSRS-Formulaの門をくぐった佐藤琢磨
2年後の97年に、このSRS-Formulaの門をくぐったのが、佐藤琢磨だった。
「10歳で生まれて初めてF1をサーキットで見た87年の鈴鹿で行われた日本GPのことは、いまでも鮮明に覚えています。あの瞬間にモータースポーツに魅せられて、そこから10年間、本当にやりたいという思いを持ち続けて、ようやくSRS-Formulaに入ることができた」
首席で卒業した琢磨はその後、イギリスF3選手権に挑戦。01年に日本人として初めて同選手権を制し、02年にジョーダンからF1デビューした。
20歳で本格的にモータースポーツ活動を始め、25歳でF1のシートを手に入れた琢磨が心に刻んでいた言葉がある。
「No Attack, No Chance!!」
挑戦しなければ、チャンスはない。しかしそれは諸刃の剣にもなった。
「20代はもちろん、30代のときも“ギャー”とか“アアーッ”というレースが多かったですね」と琢磨が振り返るように、01年から08年までのF1時代も、10年以降のインディ時代も、琢磨は数多くのチャレンジを行い、失敗も味わった。その顕著な例が12年のインディ500だった。2番手に上がって迎えたファイナルラップで、琢磨は果敢にオーバーテイクを仕掛けたがスピン。当時日本人最高位となる2位を逃し、17位に終わった。