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「今は2019年12月」と言い聞かせて…ケイリン・脇本雄太が「競輪」を犠牲にしてでも東京五輪に懸けるワケ
 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byTEAM BRIDGESTONE Cycling

posted2020/12/27 17:00

「今は2019年12月」と言い聞かせて…ケイリン・脇本雄太が「競輪」を犠牲にしてでも東京五輪に懸けるワケ<Number Web> photograph by TEAM BRIDGESTONE Cycling

2020年6月に男子ケイリンおよび男子スプリントの代表に内定した脇本。21年夏は32歳で東京五輪を迎える

伊豆に移り住んで取り組むことを求められた

「他の大会とかなり違うと感じました」

 オリンピックならではの雰囲気もある。

 何よりも、競輪とケイリンは、実は同じではない。競輪は昔と変わらぬルールのもとで運営されているが、ケイリンは競輪と異なり、変更もしばしばされてきた。バンク1周の距離も競輪はさまざまだが、ケイリンは250mだ。そうした違いへの対応も問われる。

「戸惑いにつながってしまったのかなと思います」

 苦さをかみしめた。

 そんな脇本に、変化のきっかけが訪れた。日本代表の強化体制が一新されたことだ。

 ナショナルチーム短距離のヘッドコーチにブノワ・ベトゥ氏が就任。氏は改革に乗り出した。練習方法も大きく変わったが、同時に、選手に求めたことがあった。

「4年間、伊豆という環境に慣れて東京オリンピックを目指す覚悟はあるのか」

 脇本はそう問いかけられたという。

 指導の拠点である伊豆に移り住んで取り組むことを求めたのである。

競輪への出場回数が減ることを意味していた

 受け入れるのは容易なことではなかった。

 それは競輪への出場回数が減ることを意味していた。当然生活面にも影響が出る。

「生活も変わるのでどうしようかなという思いもあり、葛藤はありました」

 それでも脇本は決断し、求めに応じた。東京五輪でリオデジャネイロのリベンジを果たしたかった。追い続けてきたオリンピックでの活躍を捨てるわけにはいかなかった。

 成果は徐々に表れた。

 そして2020年2月の世界選手権では銀メダルを獲得。6月に五輪代表内定のアナウンスもなされた。

【次ページ】 「正直、モチベーションに大きく影響しました」

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