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【悼む】史上最強ブラジルを葬った“死刑執行人”ロッシ、64歳の早すぎる死 王国に与えた甚大な影響とは
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byGetty Images
posted2020/12/16 11:03
当時「黄金の中盤」と称されたセレソンをハットトリックで撃破したパオロ・ロッシ。これぞイタリアのストライカーという佇まいだった
守備に甘さがあったのは事実だが、史上最強と謳われた攻撃陣を擁しても勝てなかったことにブラジルのフットボール関係者、メディア、国民の誰もが打ちのめされた。
痛恨のパスミスでイタリアの2点目のきっかけを作ったトニーニョ・セレーゾは、戦犯の1人とされた。このW杯から30年以上を経て筆者がインタビューした際、彼は「あのミスをした場面は、その後、何度も夢に見た」と悲しそうに首を振った。
「もっと守備を重視すべき」の声が強まる
この敗戦以降、ブラジルでは「美しく攻めるだけでは、世界の頂点に立てない。もっと守備を重視するべき」という意見が多くなった。1986年W杯で再びテレ・サンタナ監督が指揮を執ったセレソンが準々決勝で敗退すると、ブラジルは「フッチボール・アルチ」を捨てて守備をもっと重視する方向へ舵を切る。こうして、1994年と2002年の大会を制覇した。
だが、守備的なスタイルは国内では人気がない。「もし1982年W杯で優勝していたら、その後もセレソンは攻撃的なスタイルを貫いていたはず」と言われており、「もしあのときイタリアに敗れていなかったら」、「もしロッシを封じていたら」という仮定の話が現在に至るまで繰り返されている。
サンパウロでタクシー乗車拒否にあったロッシ
引退後の1989年、ロッシがブラジルのサンパウロを訪れた際、タクシーに乗ったら運転手から「あなたはパオロ・ロッシか」と聞かれた。頷いたら、「あなたには我慢がならない。すぐに降りてくれ」と乗車拒否をされたという。
しかし、ブラジル人の誰もがロッシを憎んでいるわけではない。「敵ながらあっぱれ」、「抑えられなかった方が悪い」という声も多い。ロッシ自身も「私はブラジルとブラジル人が大好きなんだ」と語っており、タクシー運転手の逸話を自らの“勲章”と捉えていた節がある。
なお若い頃の故障が響き、ロッシは1987年、31歳の若さで引退した。クラブで340試合に出場して134得点。代表通算は、48試合で20得点だった。
彼より多く点を取ったストライカーは、イタリアにも世界にもいる。しかし大舞台でこれほど輝き、人々の印象に残る活躍をした選手は少ない。引退後は、テレビの解説者を務めるかたわら、若手の育成に情熱を傾けていた。
ディエゴ・マラドーナの突然の死から2週間後、世界のフットボールの歴史を作った偉大な選手がまた1人、早逝した。マラドーナ同様、彼も人々の記憶に永遠に残るフットボーラーだった。