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岐阜の進学校からJリーガー誕生秘話 広島期待のスピードスター藤井智也、6人の仲間と“鬼自主練”
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2020/12/15 11:01
今年1月、サンフレッチェ広島への加入を発表していた立命館大学4年MF藤井智也。すでにJリーグ13試合を経験済みだ
中学時代は何をやってもダメ
小学校時代、藤井は県トレセンや東海トレセン候補に選ばれる存在だった。しかし、中学校に上がるとトレセンの招集歴はなく、所属チームでもレギュラーを勝ち取れなかった。
「小学校時代からスピードだけはあって、自分のやりたいようにプレーができていたんです。でも、中学生になったら周りの身長が伸び、体が大きくなっていくのに、僕は158cmのまま。気づいたら自分が周りより遅くなっていて、何もできなくなっていったんです」
葛藤を抱えた藤井少年は所属していたクラブチームを離れて心機一転を図ったが、転籍した若鮎長良FC(岐阜県)でもその立場は変わらない。中学最後の試合となった「高円宮杯JFA全日本U-15サッカー選手権岐阜県予選」では準決勝で屈辱のインアウト(途中出場からの途中交代)を経験した。
「中学時代は何をやってもダメ。だからこそ、高校で巻き返したかった。なぜか『絶対に誰にも負けない』という気持ちだけは持っていたんです」
中学時代の実績はなく、仲間たちが進んだ帝京大可児高校や岐阜工高校など強豪校からの誘いはない。とはいえ、サッカーで全国大会に出ることが目標であれば、ほかに選択肢はあったはずだが、藤井は長良高校に進学した理由をこう振り返っている。
「サッカーだけじゃなく、勉強もしっかりとできるところに行きたかった。何より僕のことを知る人がいない学校に行きたかったんです。誰も知らない環境でチームを強くして、県内の強豪校に進んだ選手たちを見返したいと強く思っていました。その条件に当てはまる高校が長良を含めて2つあった。若鮎長良FCのチームメイトに長良へ進む子はいなかったし、他のチームの話を聞いても長良に行くという話を聞かなかったので、逆にチャンスだと思ったんです。とにかく新しい環境に行けば、いろんなことがリセットされる。長良のサッカー部はほとんどが中体連の部活動出身の選手たちばかりだったので、まっさらの状態でサッカーをできました」
欠かさなかった朝練、周囲と生まれたギャップ
長良高校では強い決意をすぐに行動に示した。サッカー部の同級生を片っ端から誘い、早朝7時からの自主トレを行った。
「中3の途中から徐々にスピードも戻ってきた感覚があったし、中学時代までのような裏ばかり狙う選手では、またすぐに『スピードだけ』と頭打ちになってしまう。ドリブルで相手をかわせる選手になりたいと、ひたすら1対1の練習に取り組んでいました」
センターラインの手前から藤井が攻め、他のメンバーが交互にディフェンスを行う。藤井が15回連続でゴールを挙げれば勝ち、それをDFかGKに止められたら藤井の負けというルールを作った。入学から1日も休まずにこの練習に明け暮れた。
だが、次第に周囲との温度差が生まれ始めた。
<そこまでやる意味ある?>
前述したように、藤井が中学時代にプレーした仲間たちと長良高校のチームメイトではサッカーのレベルも違えば、考え方も違う。30人程度の同学年の選手たちと「頑張っているやつらを笑って、そっちの方が正解のような雰囲気を出すのが大嫌いだった」という藤井の強い志はギャップを生み、冷めた視線すらも感じるようになったという。
信じることができた6人の仲間
だが、それでも藤井には自分を認めてくれる仲間が6人いた。そのいずれもクラブチーム出身ではなく、素人レベルに近い子もいたが、雨でグラウンドがぐちゃぐちゃになっても、霜が降りてカチカチになったグラウンドでも、全力でドリブルを仕掛ける藤井に対して何度も必死に食らいついてきてくれた。
「高1が終わって新チームになる時に『キャプテンをやりたい』とその6人の同級生に伝えたんです。そうしたら『お前だからついて行きたい』と言ってくれた。だから、この6人だけは言いたいことを言ってもきちんと受け止めてくれる、ちゃんと向き合ってくれると信じることができたんです。他の選手はいなくなっても、絶対にこの6人だけはついてきてくれると。それが救いだった。1人だったら絶対に今の道に進むことは無理でした」
努力が実ったのか、高2になると藤井にようやく成長期が訪れ、身長は173cmまで伸びた。ストライドが大きくなったことから、入学時は6.5秒だったスポーツテストの50m走のタイムも3年時には5.9秒まで跳ね上がった。