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ハンセンの引き抜き、ブロディのボイコット、長州力の乱入…仁義なき「師走のタッグリーグ」事件簿
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2020/12/05 17:01
MSGタッグリーグ戦を優勝したアントニオ猪木(左)、ハルク・ホーガン
毎年起こった“事件”、“ハプニング”
全日本に遅れること3年。新日本も1980年末から『MSGタッグリーグ戦』をスタートさせる。ここからタッグリーグは、両団体の暮れの風物詩となったが、当時は新日本と全日本が業界の覇権を懸けて対立していた時代。同時期に、同じコンセプトで行われたタッグリーグ戦は、選手引き抜きをはじめ毎年のように“事件”や“ハプニング”が起こり、そういった意味でも見逃せないシリーズとなっていった。
まず最初に大事件が起こったのは1981年。全日本『最強タッグ』の最終戦が行われる蔵前国技館に、3日前まで新日本の『MSGタッグ』に出場していたスタン・ハンセンが出現。ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカのセコンドとして一緒に入場し、場外乱闘の最中、相手チームのテリー・ファンクをウエスタン・ラリアットでKO。ブロディ&スヌーカの優勝をアシストするとともに、全日本参戦をアピールしたのだ。
停戦協定、そして前代未聞の移籍劇
この年、両団体は仁義なき選手引き抜き合戦を行なっていたが、新日本の外国人エースだったハンセンの電撃移籍のインパクトは特大で、その後、引き抜き合戦を仕掛けた側の新日本が停戦を申し出るに至っている。
この停戦協定によって、82年、83年は大きなハプニングが起こらず終わったが、84年に再び新日本に激震が走る。新日本の『MSGタッグ』への出場が決まっていたダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスが、来日するや全日本への移籍を電撃表明。そのまま『最強タッグ』に鞍替え出場するという前代未聞の移籍劇が行われたのだ。
これは全日本による引き抜きではなく、キッド&スミスとマネージャーのミスター・ヒトによる新日本に対する造反だったため、停戦協定は意味を為さなかったのである。
この年、新日本は前田日明、藤原喜明らUWF勢、さらに長州力率いる維新軍団という、日本人選手大量離脱の憂き目に遭っており、年の瀬のキッド&スミス離脱は、まさに弱り目に祟り目といったところだった。