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五輪代表選考会が「慶大vs東大vs一橋大」のことも…「ボート競技」と“エリート校”の関係とは?
text by
小林哲夫Tetsuo Kobayashi
photograph byGetty Images
posted2020/10/13 17:02
ヘルシンキ大会では大学生と大学出身者(戦前の高等教育機関を含む)を合わせた人数が、出場者の7割を超えていた(写真はリオデジャネイロ大会での様子)
「大学から始めてなんとかなるのはボートぐらいだろうと思い、オリンピックのことは頭にありませんでした。コーチ、先輩、クルーメンバーに恵まれたこともあって、試合に出られるようになりました。合宿所での練習は厳しく授業になかなか出られない。友人からノートを借り、試験だけを受けたこともありました。いちばん大変だったのは、食べるものが自由にならなかったことです。合宿所ではいつも腹を減らしており、先輩からの差し入れなどでメシを腹一杯食えたらありがたい、という時代でした」
オリンピック代表選考は、慶應大と東京大、一橋大の3校が競い、慶應大が東京大を三分の一艇身差で下した。このときのエイト(漕手八人、舵手一人)のメンバーから、舵手付きフォア代表として慶應大から武内ら5人が選ばれた。当時の慶應義塾長は喜び、彼らを自宅に招待している。
この時代、日本はまだ貧しい。海外渡航には莫大な費用がかかるため、慶應大では端艇部を中心にカンパ活動を行って旅費を工面した。
52年ヘルシンキ大会で慶應大は予選で4着、敗者復活戦で3着となり、決勝に進むことはできなかった。武内はこう続けた。
「日本にとって十数年ぶりの国際大会で、他国の漕法を見たことがなかった。私たちはオーソドックスな漕法を改良してハイピッチで漕ぎましたが、ソフトもハードも時代遅れでした。他国のほうが断然良かった。そして、体力差を痛感しました。前半はなんとかついていくけど、後半は抜かれてしまいました。このときの敗戦を分析し、その後のオリンピックに役立てることができたと思います」
「学業成績が悪いと合宿所に大学から手紙が来て……」
武内とともにオールを握った堀越保(旧姓、木暮)は1930年群馬県生まれ。県立渋川高校から慶應大経済学部に進んだ。
ボートは慶應大に入ってからだが、そのきっかけがおもしろい。大学の必修科目として体育実技を登録しなければならないが、申し込みが遅くなってしまい、野球、テニス、サッカーなどの人気科目は定員締め切りのため履修できなかった。残りはボクシング、空手とボートだった。