ゴルフボールの転がる先BACK NUMBER
戸張捷が語る「観るゴルフ」の現状。
ツアーの権利と義務を見直す時代に。
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph byYoichi Katsuragawa
posted2020/08/24 07:00
キャスターとして多くの名場面をお茶の間に届けてきた戸張捷氏。現在、ゴルフ界が直面している問題に対し、率直に語った。
「観るゴルフ」としては?
ただし、ゴルフをプレーするだけの立場ならばそれでもいい。「観るゴルフ」に携わる人々にとってはツアーの動向が死活問題。日本のプロゴルフは大丈夫? 不安が付きまとう。
なかでも目に付くのが、社会活動が再開したタイミングでの主要ツアーの対応の違いである。例えば米国では6月のシーズン再開から毎週大会を開催。ゴルフが他のプロスポーツを先導する形でリスタートし、地域の事情で試合が中止された週に、別会場で新規大会が立ち上げられた。各国を巡る欧州男子ツアーは渡航制限を懸念し、急きょ英国内だけで6試合を組んだ。
一方、国内ツアーはプロ野球、Jリーグ等の後塵を拝すように再始動。女子が6月に1試合を開催、2戦目は8月になった。男子はシード選手の約半数が海外滞在選手(外国人選手)という事情もあり、7月の大会はエキシビションに変更、ようやく9月の公式戦再開が決まっても、冠スポンサーの経済的事情もあって以降も大会中止が相次ぐのが現状だ。
戸張氏はこの違いを、「トーナメントの成立過程」に起因すると指摘した。実は、その日本のプロゴルフ大会の成り立ちこそが、自身の歩みと重なるものでもある。
トーナメントを先導したのは協会ではない。
そもそも戸張氏は、ゴルフ部に所属していた慶大卒業後、住友ゴム工業で社会人生活をスタートさせた。直後に同社のゴルフ事業に携わるが、当時の名刺にあった所属部署は「スポーツ用品販売課」。つまり、ゴルフクラブやボールを売る仕事だった。
自分の扱う商品をどうすればたくさん売れるか? 20代の感性はシンプルで「ゴルファーが増えればいい。そのためにはゴルフ人気のアップが欠かせない」というもの。その策のひとつがプロの大会の充実だった。ジャンボ尾崎が初優勝(1971年)を飾るよりも前の話である。
当時、トーナメントの企画運営を先導したのは、男女のプロ協会よりも彼らのような一介の企業戦士たちだった。企画書を書き、プレゼンを通じてスポンサーを口説き、選手の賞金にはじまる大会運営費を捻出した。
「協会に『トーナメントを作って下さい』と言われて作っていた時代。そこでスポンサー側は『やってもいいけれど、メリットはあるの?』となるわけです」
人気のないゴルフに出資する主目的は企業の宣伝。テレビ放送もその一環である。加えて、企業の“エライ人”たちがプロと懇親ゴルフができる「プロアマ戦」もスポンサーメリットとして打ち出し、業界は成長を始めた。