ファイターズ広報、記す。BACK NUMBER
愛される杉谷拳士の礎と成長曲線。
ベテランの目利きでさえも覆された。
text by
高山通史Michifumi Takayama
photograph byKyodo News
posted2020/07/29 08:00
不振にあえぐチームの中で気を吐く杉谷拳士。22試合に出場して打率.306、本塁打2(7月28日時点)。
とにかく練習をこなした1年目。
一軍へと定着した今からは想像できない、ルーキーイヤーだったという。周囲は、ひと目見て一定のジャッジを下していた。当時、ベテラン選手だった小田智之ファーム打撃コーチ。現役最終年の1年間を、1年目の杉谷選手とともに主にファームで過ごした。
第一印象を、回想した。
「非力でしたし、特長もあまりなかったですね。正直、プロでやっていくのは厳しいかもしれないとは思いました」
そう語ってから「ただ……」と付け加えた。秀でて、リスペクトしていたストロングポイントを明かしたのである。
「とにかく練習の量だけは、こなしていました。そこに関しては、本当にすごいな、と思って見ていましたよ。記憶に残ってますね。だから、ここまでプロでやれているんでしょうね」と証言した。
1年間継続した朝晩の日課。
ファームでスタートした1年目、朝晩の日課があったという。同じ「勇翔寮」で寝食をともにしていた、当時の中島輝士ファーム打撃コーチ(京都先端科学大学監督)のサポートを受けながら、毎日の打撃練習をノルマに設定していた。
プロ入りまでメーンは右打者だったため、取り組んだのは左打ちのレベルアップ。プロ入り後に本格的に挑戦したスイッチヒッターとしての土台を築くためだった。1箱200球ほどのボールを2~3箱打ち込んでから朝食。そこから当日の試合、全体練習へと臨むのがルーティンだったそうだ。肉体的にハードなビジターの遠征へ向かう日の朝も、それを欠かすことはなかったという。
休むことなく1年間、継続した。早朝5時45分に起床。6時に室内練習場から打球音が響けば、そこに杉谷がいたという。当時の寮長も「好きなだけ練習していい」と、特別に開放してくれた。杉谷選手は「寮長とか周りの理解があったから、練習できた。感謝しかないです」と温かい支えに、今も感謝を忘れない。
関東近郊でのビジターでの試合を終えて帰寮後には、現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務める三木肇ファーム内野守備コーチらと、おさらいの練習に取り組むことが常だった。夕食後には夜間練習を、自らに課していた。同じ下位指名で高卒同期の中島卓也選手らと競い合うように1年間、1日中、野球に没頭していたという。
「全然、ダメでしたからね。やるしかなかった。コーチがいなくて1人だった時も、マシン相手とかで1年間、やりきりました」
杉谷選手は、懐かしそうに語った。
プロで一定の活躍をした先輩たちも、その野球と向き合う姿には一目置いていたそうである。小田コーチは「あそこまで、なかなかできないです。毎日、それをやり通したんですから。そして、結果も出したんですから」と言う。未来への扉をこじ開けるために立ったプロ野球選手としてのスタートライン。ひたむきに野球だけに、注力していた。