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J1仙台内定の大型DFアピアタウィア久。
急成長の裏にCB転向と母のサポート。
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![安藤隆人](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/b/f/-/img_bf61245775818e993f7b27afcadd69be52906.jpg)
安藤隆人Takahito Ando
photograph byAFP/AFLO
posted2020/06/07 11:50
![J1仙台内定の大型DFアピアタウィア久。急成長の裏にCB転向と母のサポート。<Number Web> photograph by AFP/AFLO](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/c/9/700/img_c9571c23341d133baf09c707c8876fbe151680.jpg)
J1仙台への来季加入が決まった大型DFアピアタウィア久(流経大4年)。2018年には、自身初となる世代別代表にも選出された。
好奇の目から守ってくれた母。
アピアタウィアの父はガーナ出身。両親は彼が6歳の時に別居、後に離婚し、そこから母が女手一つで彼と2歳下の妹を育ててくれた。その分、プロになって恩返しをしたい気持ちは人一倍強かった。
「小さい頃、『どうして僕は周りの人たちと肌の色が違うんだろう』と思っていました。ハーフということだけで、必要以上に期待の目を向けられているように感じて、それで出来ないと『期待外れ』と。幸いサッカーの仲間たちはそういうことは言いませんでしたが、外野からは傷つく言葉を言われたりもしました。でも、母は僕が受けた傷を優しく癒してくれるというか、察してくれた。小さい頃から始めたサッカーをずっと応援してくれた一番の存在だったので、プロになる夢は諦めてはいけないと思っていました」
中学最後の大会を終えると、一度サッカーを離れて受験勉強に打ち込んだ。
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「もちろんサッカー推薦で高校に行きたかったのですが、当然どこからも声はかかりませんでした。ちょうど中3の時に進学校の名古屋高がインターハイに出場したので、サッカーで全国大会、勉強も一緒に頑張って大学に行ければと考えました。『サッカーで成功したい』という気持ちも強かったので、強豪校に推薦で入れないのであれば、自力の力で入って、そこから這い上がろうと思ったんです」
サッカー推薦を決めた同級生たちがクラブの練習に通う中、彼は母にお願いをして予備校に通い始めた。学校が終わると勉強に集中。学校のない日も朝から予備校へ通い、帰宅は夜遅く。だが、そんな努力も報われなかった。
「名古屋高に落ちて、悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。人生初の大きな挫折でした」
中学生に敗れ、とっさについた嘘。
アピアタウィアは第2希望だった東邦高に進学する。東邦高は選手権出場4回(当時)、インターハイでは2003年度に全国ベスト4に入るなど、愛知県屈指の強豪校だ。それゆえに実績ある選手が多く、中学時代を無名で過ごした彼にとって、非常に厳しい環境であることに変わりはなかった。
入学後、レベルに合わせた5つのチーム分け(A1~B3)の中で一番下のB3からのスタートだった。40人ほどの同級生が次々とカテゴリーを上げていく中、彼は1年間ずっとB3のまま。「サッカーに向いていないんじゃないか」と沈みそうになる自分を必死に保っていた。
高1の夏、本気でサッカー部を辞めようとした瞬間があった。彼が所属していたチームは中学生のクラブと練習試合をして負けてしまったのだ。
「情けなくて、情けなくて。FWとして大したプレーもできなかったし、これまで我慢していたいろんな感情が込み上げてきて……」
もう辞めよう――。そんな思いで帰宅をすると、母はいつもの優しい笑顔で迎えてくれた。
「おかえり、今日の試合どうだった?」
「2-0で勝ったよ。俺、点も決めたし」
とっさに嘘をついた。
これまでも試合のことを聞かれると、母に心配をかけるまいと「良かったよ」と嘘をついてきていた。自分の好きなことをやらせてもらっているのに「辞める」なんて、とても言えない。
「やっぱり僕は母の悲しむ顔を見たくなかったんです」
そこから彼は1つでも上のカテゴリーに上がるために努力を続けた。