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J1仙台内定の大型DFアピアタウィア久。
急成長の裏にCB転向と母のサポート。 

text by

安藤隆人

安藤隆人Takahito Ando

PROFILE

photograph byAFP/AFLO

posted2020/06/07 11:50

J1仙台内定の大型DFアピアタウィア久。急成長の裏にCB転向と母のサポート。<Number Web> photograph by AFP/AFLO

J1仙台への来季加入が決まった大型DFアピアタウィア久(流経大4年)。2018年には、自身初となる世代別代表にも選出された。

好奇の目から守ってくれた母。

 アピアタウィアの父はガーナ出身。両親は彼が6歳の時に別居、後に離婚し、そこから母が女手一つで彼と2歳下の妹を育ててくれた。その分、プロになって恩返しをしたい気持ちは人一倍強かった。

「小さい頃、『どうして僕は周りの人たちと肌の色が違うんだろう』と思っていました。ハーフということだけで、必要以上に期待の目を向けられているように感じて、それで出来ないと『期待外れ』と。幸いサッカーの仲間たちはそういうことは言いませんでしたが、外野からは傷つく言葉を言われたりもしました。でも、母は僕が受けた傷を優しく癒してくれるというか、察してくれた。小さい頃から始めたサッカーをずっと応援してくれた一番の存在だったので、プロになる夢は諦めてはいけないと思っていました」

 中学最後の大会を終えると、一度サッカーを離れて受験勉強に打ち込んだ。

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「もちろんサッカー推薦で高校に行きたかったのですが、当然どこからも声はかかりませんでした。ちょうど中3の時に進学校の名古屋高がインターハイに出場したので、サッカーで全国大会、勉強も一緒に頑張って大学に行ければと考えました。『サッカーで成功したい』という気持ちも強かったので、強豪校に推薦で入れないのであれば、自力の力で入って、そこから這い上がろうと思ったんです」

 サッカー推薦を決めた同級生たちがクラブの練習に通う中、彼は母にお願いをして予備校に通い始めた。学校が終わると勉強に集中。学校のない日も朝から予備校へ通い、帰宅は夜遅く。だが、そんな努力も報われなかった。

「名古屋高に落ちて、悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。人生初の大きな挫折でした」

中学生に敗れ、とっさについた嘘。

 アピアタウィアは第2希望だった東邦高に進学する。東邦高は選手権出場4回(当時)、インターハイでは2003年度に全国ベスト4に入るなど、愛知県屈指の強豪校だ。それゆえに実績ある選手が多く、中学時代を無名で過ごした彼にとって、非常に厳しい環境であることに変わりはなかった。

 入学後、レベルに合わせた5つのチーム分け(A1~B3)の中で一番下のB3からのスタートだった。40人ほどの同級生が次々とカテゴリーを上げていく中、彼は1年間ずっとB3のまま。「サッカーに向いていないんじゃないか」と沈みそうになる自分を必死に保っていた。

 高1の夏、本気でサッカー部を辞めようとした瞬間があった。彼が所属していたチームは中学生のクラブと練習試合をして負けてしまったのだ。

「情けなくて、情けなくて。FWとして大したプレーもできなかったし、これまで我慢していたいろんな感情が込み上げてきて……」

 もう辞めよう――。そんな思いで帰宅をすると、母はいつもの優しい笑顔で迎えてくれた。

「おかえり、今日の試合どうだった?」

「2-0で勝ったよ。俺、点も決めたし」

 とっさに嘘をついた。

 これまでも試合のことを聞かれると、母に心配をかけるまいと「良かったよ」と嘘をついてきていた。自分の好きなことをやらせてもらっているのに「辞める」なんて、とても言えない。

「やっぱり僕は母の悲しむ顔を見たくなかったんです」

 そこから彼は1つでも上のカテゴリーに上がるために努力を続けた。

【次ページ】 戻ってきたスピードとCBへの転向。

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