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<オリンピック4位という人生(10)>
梶山義彦「境界線に落ちた涙」 

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

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photograph byKyodo News

posted2020/05/31 11:30

<オリンピック4位という人生(10)>梶山義彦「境界線に落ちた涙」<Number Web> photograph by Kyodo News

三菱自動車川崎の外野手・梶山義彦はそのバッティングを買われ、日本打線の7番を担った。

野村謙二郎のノックと古田の声。

 ただ不思議なのは、いざグラウンドに立つとそうした構造的な隔たりや境界線は次第に消えていくということだった。

 ソウルにプロが合流した初日、広島カープのベテラン野村謙二郎がノックを受けた。それは文字通り、泥にまみれる鬼気迫るものだった。その光景に梶山は息をのんだ。

「この人たちはこれだけの気持ちで来ているんだなとわかりました。あの光景はアマチュアの選手全員が見ていたと思います」

 アマ野手最年長の梶山は慣例によって主将に任命されていたが、アジア予選決勝で二つのフライを捕り損ねるミスをしてしまった。その直後にヤクルトの古田敦也がベンチの円陣でこう言ってくれた。

『おい、みんなで取り返してやろうや!』

 古田も野村も1988年、アマチュア選手としてソウル五輪を戦っていた。ひとたび白球を追えば、まだら模様がひとつの色へ溶け合っていく。みんなの胸に同じ鼓動があるのを感じることができた。松坂も、中村紀もみんな泣いた。

「プロもアマも同じ気持ちだった」

五輪本番で全く打てなくなった。

 翌年の9月、シドニー五輪開幕。

 プロとアマの構造的な隔たりは相変わらず彼らの間に見えない境界線を引き、梶山たちをやるせない気持ちにした。

 予選で中心的な役割を果たした古田の招集には球団からストップがかかった。プロ側のメンバーは大幅に変わり、予選から通じての参加は西武の松坂とダイエーの松中信彦だけであった。そしてシーズン真っ只中のプロ選手たちが豪州に合流したのは試合3日前。サインや連携を確認する程度の時間しかなかった。

「野球は団体競技ですから。こんな状況でチームになれるのかと内心で思った選手もいたと思います。でも誰も口にしなかった。プロの選手が悪いわけじゃない。僕らは日本代表として与えられた条件でやるしかないと、みんなわかっていましたから」

 参加8カ国で争われた予選リーグ。日本はアメリカ、キューバ、韓国に敗れたものの、なんとか4位で準決勝に進んだ。

 その中で梶山は悩んでいた。

「まったく打てなくなったんです……。ストレートに差される(振り遅れる)ようになって、原因もわからず、戦っていく中で修正もできませんでした」

【次ページ】 まだら模様のチームをつなぐ7番。

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