オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(10)>
梶山義彦「境界線に落ちた涙」
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKyodo News
posted2020/05/31 11:30
三菱自動車川崎の外野手・梶山義彦はそのバッティングを買われ、日本打線の7番を担った。
25歳を過ぎてプロは諦めていた。
梶山はもともと投手であり、プロ野球選手になるというおぼろげな夢があった。名門静岡高校ではのちに近鉄バファローズでセーブ王となる赤堀元之が同級生にいた。
「2年の春までは僕が中心として投げさせてもらっていました。ところが肩を痛めまして、夏からはほとんど投げられなくなって……。そのうちに3年の春になると一冬越した赤堀がすごい球を投げるようになって、負けたくないなと思っていたんです」
卒業後、社会人の三菱自動車川崎に進むと決めてからもプロへの夢はわずかながら抱いていた。いつも隣で投げていた赤堀が高校からプロ入りしたことも影響していたかもしれない。だが、もう梶山の右肩はピッチャーとしては限界にきていた。社会人1年目の夏には野手へと転向した。
「25歳を過ぎたころにはプロになるのは諦めていました。その代わり、オリンピックに行きたかったんです」
1996年のアトランタ五輪中継で見たあるシーンに胸を焦がした。当時、全員がアマチュアだった野球の日本代表は決勝でキューバと戦った。ビハインドの最終回、打席に入った大久保秀昭(日本石油、のちに近鉄)がバットを構えながら泣いていた。
「まだ試合が終わっていない、最後のあの場面で涙するというのは、いったいどんな舞台なんだろうと……。自分も立ってみたいなと思ったんです」
梶山は日本でテレビの画面に食い入っていた。敗れた彼らが流す涙がキラキラと輝いて見えた。自分もあんな涙を流してみたい。それはプロを諦めた梶山がバットを振り続ける理由になった。
アトランタの翌年、27歳で代表入り。シドニーへの青写真を描いていた。そんなとき「オリンピックにプロ選手が参加」という話が現実的になってきたのである。
時代を象徴するプロ・アマ混成。
日本球界は揺れた。そして割れた。マイナーリーグの選手を派遣することにしたアメリカ、国内リーグを中断してまでトッププロによるオールスター編成を実現させた韓国、各国の反応は様々だったが、日本は「混成」という結論に至った。
日本球界には長らくプロとアマを隔てる溝が存在する。かつて六大学が野球の華であり、職業野球は軽視されていた時代があった。それが経済発展とともにプロ野球人気が高まり、有望選手のスカウトをめぐってプロとアマ、それぞれの組織が利害のために規制をかけ合ってきた背景がある。
だから最強チームを編成すべきだという声があれば、プロはオリンピックに出るべきではないという声もあった。最終的にパ・リーグは各球団1人、セ・リーグは全体で2人の派遣とリーグ間でも温度差がでた。
その結果、生み出されたプロ・アマ混成の代表は時代の流れに揺れる日本球界の縮図そのもの。アマの日本野球連盟、プロの日本野球機構、それぞれの立場や思惑が絡んだ、まだら模様のチームであった。1999年の秋、韓国でのアジア予選。プロの選手たちが合流したのは2戦目からだった。ホテルの部屋もアマがふたり部屋なのに対し、プロはひとり部屋だった。