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パラバドミントンの新星・里見紗李奈、
事故に遭った日のことを松岡修造に語る。 

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松岡修造

松岡修造Shuzo Matsuoka

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photograph byNanae Suzuki

posted2020/06/12 11:00

パラバドミントンの新星・里見紗李奈、事故に遭った日のことを松岡修造に語る。<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

衝撃的な事故の話を、真剣に聞く松岡修造さん。屈託なく笑顔でプレーする里見選手に脱帽!

里見「家族にずっと甘える生活を送るのかという葛藤が」

里見「そうですね、『運転席の人、大丈夫かな』っていうのと、『あれ? 自分の足、動かないぞ』っていうのと。足に全く感覚がなくて本当に動かなくて、どうしよう、どうしようって。でも、結構落ち着いていて、とりあえずお母さんにケータイから電話をかけました。自宅まであと1キロくらいの場所だったので、お母さんがすぐに来てくれました」

松岡「病院ですぐに手術を受けられたんですか?」

里見「次の日に受けました。病院の先生からは手術前に、もう歩けないと伝えられていました。でも、あまりに気にしなかったというか、歩けるようになると思っていたんです。それは今も同じで、将来的には歩けるようになると思っています。ただ、事故直後、すぐに歩けるようになる思っていたので、それが難しいと気づいたときは、ちょっとメンタルやられました」

松岡「どうして事故なんか起こったんだろうって、どんどんマイナスに考えていく感じですか?」

里見「全てがマイナスでした。高校3年生の後半って、自由な時間が結構あって、友達は遊びに行ったり卒業旅行に出かけたりするんですよね。それを見て、自分と友達を比べて、しんどい時期がありました。入院中、友達のSNSを見て、『いいな、私は入院してるのに……』って」

松岡「人の目も気になりましたか?」

里見「退院してから、すごく気にするようになりました。車いすに乗っている姿をあまり見られたくなくて、中学時代からすごく仲のいい友達以外には言いませんでした。あと、電車に乗るとき、駅員さんにスロープを出してもらったり、『スロープを出すのに時間がかかるから、1本後の電車まで待ってね』と言われて待つたびに、『これからこういうことが増えていくんだな』と落ち込みました。自分は人の手を借りないと何もできないんだ、このまま自立できなのかなって。

松岡「1人で生きていくことが難しくなるという感覚ですね」

里見「はい。私、高校時代、バイトに燃えていたじゃないですか。すでに半分は自立してるみたいなところがあって、卒業後はやっと本当に自立できるって思っていたんです。それが、家族にずっと甘える生活を送るのかという葛藤がありました」

松岡「その葛藤はどれぐらいまで続いたんですか?」

里見「車いすバドミントンを始めるまで、ずっと考えていました」

(構成:高樹ミナ)

 ※本取材は緊急事態宣言が出る前に行ったものです。

里見紗李奈(さとみ・さりな)

1998年4月9日、千葉県生まれ。2016年5月、高校3年生のときに交通事故に遭い脊髄を損傷、両下肢に障がいが残る。'17年の春に父親のすすめでパラバドミントンを始める。同年8月のデビュー戦でシングルス3位、12月の日本選手権でシングルス準優勝。'18年7月のタイ国際では日本のエース山崎悠麻選手と組んだ女子ダブルスで準優勝。'19年8月の世界選手権でシングルス優勝、ダブルス3位。東京2020大会ではメダルを期待されている。クラスはWH1。NTT都市開発所属。

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