話が終わったらボールを蹴ろうBACK NUMBER
「スーパーサッカー」元Pが語る。
終了危機、ライバル、YouTube。
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byTBS Television
posted2020/05/24 20:00
テレビ業界において、1つの仕事を30年近く続けられることは稀だ。名鏡康夫氏はサッカー漬けの生活に感謝しているという。
実は日韓W杯の2002年がピンチ?
Jリーグ開幕以来、多くのサッカー番組が誕生し、終了していった中、スーパーサッカーは、今もトップランナーとして走り続けている。だが、27年間の歴史の中では番組の存続の危機にも直面している。それを乗り越えられたのは、番組のスタートから関わった名鏡氏の「存続への執念」とも言える大胆な作戦があった。
――番組終了の危機はありましたか。
「もう、何度もありましたね。そもそもスタートした時が『ドーハの悲劇』だったですから(苦笑)。最初の大きな山は2002年ですね。日韓W杯でサッカーは盛り上がったのですが、世の中的には格闘技ブームだったんです。ダイナマイトが年末に番組を成功させてスゴイ人気で、格闘技班がうちのサッカー班の枠を奪いに来たんです。格闘技は勢いがあり、視聴率を持っていたので、これはマズイと……。
それで何をしたかというと、『Jスポーツ スーパーサッカープラス』と看板を変えて30分から45分番組にして、野球とか他のスポーツを抱き合わせすることで番組の消滅を防いだんです。でも、他競技を入れたので前から見ているサッカーファンには『裏切られた』と叩かれましたけどね」
土曜日死守にこだわった理由。
――日本のサッカー人気は、日本代表の結果にリンクしています。代表が強ければ人気が上がりますが、2006年から2010年の間は結果が出ず、厳しい状態でした。
「この時期も非常に厳しくて、かなり迷走状態でした。ドイツW杯以降、代表の人気が落ちて、オシムさんから岡田(武史)監督になってもさっぱり期待が持てなかったので、2010年の4月にそれまで死守していた土曜日の枠を手放すことになったんです。それは、けっこうショックでしたね。
なんとか番組を続けるために金曜日に枠を移して、タイトルも『スーパーサッカーJ』にして、Jリーグに協力してもらってプレビュー的な内容にしました。ここで全国ネットが外れたんですが、最初は視聴率も今ひとつでかなり危なかった。南アフリカW杯の結果がドボンだったら、確実に2011年3月にスーパーサッカーは終わっていましたね。でも、岡ちゃんさまさまで、また生き返るんですよ(笑)」
――なぜ、土曜日死守にこだわったのですか。
「昔は土曜日がJリーグだったので、試合がある日には試合VTRをしっかり作って放送するというのがうちの番組の意義というか、大前提だったんです。だから、そこはこだわりました。ただ、今はJリーグが金土日で分散されていますから現在の日曜日がいいかなと思っています」