プロ野球PRESSBACK NUMBER
今中慎二のスローカーブを忘れない。
打者がたじろぐ軌道と真っ向勝負。
posted2020/04/30 19:00
text by
栗田シメイShimei Kurita
photograph by
Kyodo News
1993年の甲子園球場の阪神対中日戦。初夏にさしかかる7月だったと記憶している。
マウンドでは2人の左腕が投げ合っていた。
湯舟敏郎と今中慎二。筆者は兵庫県民としてご多分に漏れず、阪神ファンの一員として一塁側ベンチで初のプロ野球観戦に興じていた。試合は阪神が勝利したが、どうにも相手チームの細身の左腕に目を奪われた。
大きな弧を描き曲がるカーブの球速は80キロ台。かと思えば、涼しい顔で140キロ台後半のストレートを投げ込む。当時6歳で野球の技術が分かる年齢ではなかった。プロの強打者達が、なぜあの遅球を打ちあぐねるかを理解する知識は持ち合わせていなかった。
それでも、阪神打撃陣のタイミングをことごとく外し三振の山を築く今中の投球術は芸術的とすらいえた。この試合、ひいては今中が投じたスローカーブを観て以降、関西在住ながら中日ファンとして肩身が狭い思いで過ごすことになる。
この年、今中は17勝、247奪三振、防御率2.20を記録し、最多勝と最多奪三振のタイトルに加え沢村賞を受賞した。
今中は名門・大阪桐蔭の4期生として、'89年にドラフト1位でドラゴンズに入団している。2年目には10勝、3年目も12勝を挙げ、プロ入り後早い段階から頭角を現した。以降、'93年から'96年まで4年連続で開幕投手を務める押しも押されもせぬエースに成長する。今中で負けたら仕方ない――。それが当時の名古屋の街での共通認識だった。
233試合に登板、完投数は74。
球史に残る'94年の「10.8決戦」。満身創痍ながら先発マウンドに上がったのも、この背番号「14」だった。だが4回5失点とまさかの乱調で、世紀の一戦の負け投手として名前が刻まれている。エースとして、チームから求められれば中4日の強行スケジュールでも完投した。
233試合に登板し、完投数は実に74を記録。入団後と引退前の数年間はリリーフでの登板が多かったことを考慮すれば、驚異的な完投率だろう。25歳までに87勝を挙げ、その内25勝が巨人戦というジャイアンツキラーでもあった。
そんな今中を好投手からエースへと昇華させ、自身の代名詞となったのが、スローカーブの存在だ。今中がスローカーブを多投するようになったのは、'92年シーズンからだ。