フットボールの「機上の空論」BACK NUMBER
ラトビア1部コーチ中野遼太郎の見解。
成功する日本人選手の共通点って?
text by
中野遼太郎Ryotaro Nakano
photograph byRyotaro Nakano
posted2020/04/24 08:00
海外での現役生活で痛感したという「自己主張」の差。さまざまな国の人たちと接することで、言語の違いを改めて理解した。
暗黙の了解、は特殊能力に近い。
僕たちは一手目の感想や意見を交換する習慣がありません。「まず思ったこと」は一旦片隅に置いて、幾つもの暗黙の了解を挟んで、行間を読み合いながら、コミュニケーションを図っています。人数が多いほど、発言は対人ではなく、対「全体の空気」に投げられ、それを各々が察しながら、また空気に投げ返すことで、ゆっくりと総意が形成されていきます。
この暗黙の了解、行間を読む、というのは海外で暮らす人たちにとっては、ある種の特殊能力といっても過言ではありません。妖術や超能力と同じです。もちろん程度はありますが、これほど日常的に、多くの場合は円滑に、このインダイレクトなやり取りを行うのは容易ではありません。
職場であれレストランであれ公園であれ、日本人同士が集まる場が相対的に静かなのは、この「察する、汲む」というノンバーバルな対話が担う比重が大きいというのも一因です。(ノンバーバルとインダイレクトを言いたかっただけです)
たとえば俳句では、季節を季語に託しますし、夏目漱石は「I LOVE YOU」を、月が綺麗ですねと訳したと見たことがあります。古くから「間接的であること」は美徳として洗練されてきたのです。僕には街ゆく女性に漏れなく指笛を鳴らすセネガル人の友人がいますが、彼に俳句を詠ませたら「in the summer」から始めるでしょうし、アイラブユーより先に強烈な腰振りダンスが始まることは自明です。(それが悪いと言っているわけではありません)
衝撃的だった彼らの「一手目」。
南米やアフリカ系の選手と寝食を共にすると、「察する」という行為を必要としていないことに気付きます。一手目の感情が、もれなく言葉で投げられるのです。彼らは、意思を表明する、という行為に、勇気も要らなければ疲労も感じません。やりたい、やりたくない、好き、嫌い、いる、いらない。とても直接的で、息をするように感情を表現します。むしろほぼ息です。「どうする?」に対して「どうしようか?」という投げ返しはまずありません。YESかNO、迂回も裏表もありません。
こうした「初手の応酬」こそが、彼らにとっての日常的なコミュニケーションなのです。相手の会話を遮ることも厭わないし、遮られたとしてもまた割り込めばいい。会話する、と、説得する、が近い位置にあります。相手と目線も逸らさないこともここに繋がると思っています。
そして、こうして彼らが感情豊かに会話をしているあいだ、僕は盆栽のように黙ってなりゆきを見つめています。なぜなら彼らの「初手の応酬」はあまりに直接的で、ときに短絡的に思えるからです。ヒートアップすれば「一回持ち帰る」ことはもちろん、「数秒持ち帰る」ことすらしなくなり、ここはどちらか折れましょうよ、とその非効率さに腹が立つこともあります。