酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
投打で球宴出場、軽妙洒脱な解説。
関根潤三の近鉄愛と江戸っ子ぶり。
posted2020/04/11 09:00
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kyodo News
大谷翔平のMLB移籍が決まった頃、二刀流の先輩と言うことで関根潤三の記事をいくつか書いた。そのときインタビューできないか、と思ったが、難しいだろうとのことだった。
関根潤三は1927(昭和2年)3月15日生まれとされるが、実際には前年12月25日生まれだという。この日、大正天皇が崩御し役所もすべて閉まったために、出生届を出すのが遅れたのだ。この日から昭和元年になるから、まさに最後の大正生まれだ。ちなみに野村克也より9歳の年長である。
旧制日大三中からに法政大学に進み通算41勝を挙げる。これは東京六大学史上5位。左腕投手では2位。
1949(昭和24)年、大学4年生になった関根の去就に注目が集まる。プロ野球が2リーグ分裂で揺れていた時期だ。関根は社会人に進む予定だったが争奪戦が始まった。しかし法大の恩師、藤田省三が近鉄の監督に転身したため、近鉄入団が決まった。これは一般紙でもニュースになっている。
勝ち越しは1度だけも通算65勝。
東京生まれの関根にとっては、関西の近鉄は縁もゆかりもない球団ではあった。
当時の近鉄の名称は「パールス」。いかにも弱々しい名前だった。藤田監督は「3カ年計画で強くしていく」と語ったが、3年とも最下位(7位)で「玉砕ばかりのパールス」と言われた。関根はこの最弱チームでローテを維持し、エースにのし上がっていく。
筆者の家の近所に、黒田勉と言うがっちりした体躯のお爺さんが住んでいた。関根から6年遅れで近鉄に入った右腕投手だ。彼は「負けてばっかりやった」と言っていた。黒田は一度も2ケタ勝利がなく、2ケタ負けは5回、20敗も2回記録した。通算は38勝93敗。
関根は黒田よりもましな65勝94敗。しかし勝ち越しは16勝(12敗)を挙げた1954年だけ。あとはずっと負け越し。ただ1953年には投手としてオールスター戦に出場している。まさに弱いチームのエースだったのだ。