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武田英寿が浦和レッズを選んだ理由。
「長谷部さんも苦しんだと聞いた」
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2020/02/20 08:00
数あるクラブの中から、経験豊富な選手がそろう浦和を選んだ武田英寿。まずは試合出場を目指し、練習に励んでいる。
「このままいけるんじゃないか」
「高2の春までは本当にもがいていたというか、どうしたら試合に出られるのかをずっと考えながら取り組んでいましたね」
全国から集まるライバルとしのぎを削り合う中、自分に足りないことに気づいた。それは技術だけに頼るのではなく、周りの特徴や意図を感じ取ること。持っている技術をどう試合に生かすかという考え方だった。
高2の春先。1.5軍にあたる「A2」に属していた武田は、紅白戦でトップチームに当たる「A1」の選手たちの動きや特徴を頭に入れながら、自分のイメージとすり合わてプレーしていた。
「A2からのスタートは、正直思い描いていたものと違っていました。正直焦りましたし、悔しかった。高2でトップチームの7番、高3で10番(という系譜)は高橋壱晟(現・ジェフユナイテッド千葉)さん、郷家友太(現・ヴィッセル神戸)さんが辿っていて、自分もそうなるつもりだった。でも僕は、東北新人戦でトップチームの7番を背負わせてもらったのに、パフォーマンスが悪くてA2に落とされてしまった。トップの7番を背負ったときに『このままいけるんじゃないか』と思ってしまった自分の甘さに気づきました」
気持ちを入れ直した武田は急成長を遂げた。
トップチームに昇格すると高円宮杯プレミアリーグEASTでは18番を背負って、鋭い洞察力と広い視野を生かした判断力を発揮。そして左足から精度の高いボールを供給した。それもすべてはもう1度「7番」を背負いたいという思いだった。そして、2年夏のインターハイで「7番」を背負って出場すると、それ以降はレギュラーの座を掴み、優勝した選手権でも「7番」を、最高学年では「10番」を託されてチームの先頭を走り続けた。
自分と向き合い、課題や壁に当たった時にどう行動するか。武田は青森山田で過ごした6年間でそれを当たり前のように繰り返してきたのだった。
戸惑いもあったキャンプ合流。
「この赤いユニフォームに袖を通す人間として、これから起こりうることはすべて自分のためと考えています」
1月13日の選手権決勝まで戦ったことから、キャンプでは他の選手と比べて合流が少し遅れた。周りが徐々にコンディションを上げていく中、初めて対峙するプロの世界に戸惑いもあった。
「正直、出遅れている感はありました。チームの戦術的な部分で立ち位置が分からなくて周りの選手と呼吸が合わない部分を多く感じました。自分がどこに立って、どこで受ければいいかも分からなくて、フラフラしてしまい、迷惑をかけているんじゃないかと思う部分が多かったんです。それでも大槻(毅)監督が、映像やボードを使って教えてくれたことで、徐々に理解できるようになりました」