One story of the fieldBACK NUMBER
日大アメフト部の真実、その光と影(後編)
彼らは「タックル」を取り戻せたのか。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKiichi Matsumoto
posted2019/12/28 19:05
最終戦後、笑顔を浮かべる宮川泰介ら選手たち。彼らは純粋に試合にフォーカスした一方で、時代と部の変容をどう感じていたのだろうか。
「最初はこいつなんやねんという目が」
一方、橋詰には確固たる“プレーブック”があった。
まだ30代のころ、全米学生王者にもなった名門オクラホマ大学に留学した。アメフト部の選手やスタッフとして入ったわけではない。言葉ができたわけでもない。知人がいたわけでもない。
ただ、日々の練習や試合をずっと見ていた。本当にただただ見ていたという。
「トレーニングからミーティング、試合まで、毎日その輪のなかに入って見てました。最初はこいつなんやねんという目で見られるんですが、そのうち『ああ、いつもいるやつや』となっていく。トレーニングの運び方、ミーティングのやり方、すべてを見ました。自分としてはあの経験がもっとも大きかった。ぼくにはぼくのプレーブックがあるんですよ」
橋詰は帰国後、立命館大のコーチとして複数のレシーバーにパスを投げ分けるオフェンスを導入し、2003年から2年連続で甲子園ボウル、ライスボウルを制して日本一となった。橋詰がもたらしたその攻撃の破壊力は、ショットガンを文字って「リッツガン」と呼ばれた。
現役時代はクォーターバック。組織やチームの合理的な造形がもたらす美しい結果を追求してきた人である。
新しい指揮官は、半信半疑の選手たちに“意志”という名のボールを投げた。
自主性。自由。聞こえはいいが。
日々、グラウンド脇の壁に貼り出されるメニュー表の頭には、その日のトレーニング時間が明記されている。ひとつのメニューはきっかり5分。となりに残り時間が記されていて、消化するごとにカウントダウン式に5分ずつ減っていく。最後のメニューの横には0と書いてある。それで終わりだ。
「最初は全然ダメでした。ついつい『もう1本、もう1本』という癖が出て、1つの練習が5分を超えてしまう。すると監督に『オーバーしているぞ』と指摘されるんです」
いったん始まればトレーニングは一度も止まらずに流れていく。監督、コーチからやり直しを強要されることはなく、むしろ認められない。
橋詰は複数のポジションごとに分かれて進んでいく練習のなかを漂っていて、ほとんど何も言わない。ただじっくりと観察している。
何か言いたいことがあっても、それは撮影したビデオを見てから、翌日のミーティングでじっくりと話し合うことにしていた。
だから待っているだけでは、どんどん時間は減っていく。練習中、選手たちはこれで良いのか、どうすれば良いのか、その瞬間、瞬間、お互いに考え、主張せざるをえない。
終わったあとに練習することはできない。なにしろ照明は消えてしまうのだ。限られた時間の中でどれだけ突きつめられるか。彼らは常に自分の意志と決断を求められた。自主性。自由。聞こえはいいが、いざ、それらを与えられると何もできない自分たちがいた。
「大枠だけをつくってもらって、細かいところは自分たちで考えてみなさいと言われても、できませんでした……。それまでは練習メニューもあってないようなものでしたし、次にやることも練習時間も、監督やコーチの気分次第という感じでしたから」
しかも彼らには公式戦がなかった。真剣勝負の場がなかった。自分たちが今どのあたりにいるのか。進んでいる道は間違っていないのか。実感をもてないまま進んでいくしかなかった。