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日大アメフト部の真実、その光と影(後編)
彼らは「タックル」を取り戻せたのか。

posted2019/12/28 19:05

 
日大アメフト部の真実、その光と影(後編)彼らは「タックル」を取り戻せたのか。<Number Web> photograph by Kiichi Matsumoto

最終戦後、笑顔を浮かべる宮川泰介ら選手たち。彼らは純粋に試合にフォーカスした一方で、時代と部の変容をどう感じていたのだろうか。

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

PROFILE

photograph by

Kiichi Matsumoto

2019年12月1日、日本大学アメリカンフットボール部が1つの結果を出した。桜美林大学との最終戦を制し、上位リーグの「TOP8」昇格を決めた。あの騒動から1年半、いるべき場所に戻ったと言っていい。
ただ、果たしてその過程、実態はどんなものだったのか? それを追ったのは鈴木忠平氏。清原和博や辰吉丈一郎らの今を描くなど気鋭のライターが見た、光と影――2019年を締めくくるに値する、長編ノンフィクション。後編は騒動の当事者になった、彼の偽らざる心境について。

 新監督としてやってきたのは、あの日、滋賀でタックルの映像を見た橋詰だった。あのワンシーンだけでその裏にある異様なものを、おそらくは具体的に感じとっていた男だ。

 橋詰は8月7日、新チームのスタートとなった日にグラウンドにやってきた宮川の顔が今も忘れられない。

「ひと言、謝らせてください」

 彼はそう言った。

「ぼくは彼と話してみたんです。最初は『もうやりたくありません』と頑なでした。ただ、雑談してるうちに、それが『できません……』に変わったんです。ああ、やっぱり、やりたいんだなと。子供の部分が見えたんですよ。そりゃあ、ずっとアメフトだけやってきた20歳そこそこの青年がやりたくないはずはない。だから私は彼に、アメフトをやめるというのもたしかに責任のとり方だろう。でも、どん底からスタートするこのチームに対して自分ができることをする。そういう責任のとり方もあるんじゃないのか、と話しました」

 じかに接した宮川は、あの動画のなかの人物とも、会見のときの大人びた人物とも違っていた。未熟で、それゆえにまっすぐで、まだ子供の部分が見え隠れしていた。

 ほどなくして、贄田ら選手たちも宮川を部に復帰させてほしいと直訴してきた。

 橋詰も贄田たちも、おそらく同じ思いだった。

 あの「タックル」から逃げていては先へは進めない。あれを乗り越えた先に変革はある。

 宮川をグラウンドに戻す。それが新チームみんなの心の命題になった。

日本一になれなくても、日本一に。

 ただ、2018年の夏にスタートしたこの新しいチームを待っていたのは、遠くて長くて乾いた道だった。翌2019年の秋まで1年以上も公式戦はなく、リーグに復帰したとしても創部以来、初めてとなる下位リーグでの戦いだ。

 甲子園ボウルに出て、日本一になる権利はない。そんな彼らの目標をどこに設定すべきか。

 橋詰は考え、選手と話し合った。

「このチームの目標がビッグ8(実質二部に相当)で優勝して昇格するだけでいいのかと。そこを目指してしまえば、それだけのチームになってしまうんじゃないか。もちろん実際には出られないんですけど、甲子園ボウルに出て、勝つチームをめざすべきじゃないか、それに値するようなチームをめざすべきじゃないかと、そういう話を最初に学生たちとしたんです」

 フェニックスの監督に立候補したとき、橋詰はレポート用紙数枚にわたって自身の思い描くチーム像を書いた。そこに記されたもっとも重要なものは「日本一、日本一にふさわしいチームにしたい」という理念だったという。

 それがそのまま新チームの目標になった。

21時15分に消えるグラウンドの灯り。

 現実としては叶わない。形として手にはできない。勝つだけでは手に入らないものを彼らはめざした。そうするしかなかった。

 そのために橋詰がまずやったことが、グラウンドの灯りを消すことだった。

 それまでは深夜まで延々と灯っていた6基の照明を21時15分にいっせいに消すと決めた。

 贄田は当初、この変化についていけなかった。

「それまでは練習がおわる時間なんて決まっていませんでした。コーチが納得するまでずっと照明をつけて練習をしていました。近所から苦情が来るまでやっていました。ぼくらはそれで強くなってきたという思いがあるので、いきなり練習が短くなったり、週に2日も休みになると、不安でしかたなかったです」

 彼らは前年、甲子園ボウルを制して学生日本一になったチームだった。自負があった。

 いくら「タックル問題」があったとはいえ、トレーニングのやり方まで大きく変えてしまうことには抵抗があった。

「鬼コーチがいて、選手がそれに食らいついていく。できるまでやる。そういう今までのやり方も間違いではないという思いも自分のなかにはあったんです」

 贄田の言葉は多くの選手の胸の内を代弁していた。

 これでいいのか、という選手たちの不安は疑念となって橋詰に向けられた。

【次ページ】 「最初はこいつなんやねんという目が」

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