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真壁伸弥のラグビー人生に乾杯!
「羽ばたけ」から始まった縁とW杯。
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byAsami Enomoto
posted2019/12/26 20:30
2015年W杯ではケガを乗り越え、南アフリカ戦のピッチに立った真壁伸弥。力強いタックル、ランで観客を沸かせ続けた。
サントリーの一員になれたことが誇り。
中央大学に進むと、サイズと痛みを恐れない勇敢なプレーが目に留まり、日本代表候補へと選出される。滝井先生からもらった言葉に一歩近づいていた。
「トップリーグとの縁ができたのは、最初は東芝府中(現・東芝)でした。中大の通っているスポーツジムが一緒で、当時監督だった薫田(真広)さんに練習に誘ってもらったんです。あの時の東芝は、本当にヤバかったです。練習は15対15で、バチバチと当たり合う。これはなんの練習なんだ? と思いましたよ。しかも、日本代表レベルがゴロゴロしてましたからね。当時、僕にとって同じポジションの大野均は『殿上人』に見えました」
様々な選択肢を考慮し、2009年にサントリーへ入社。真壁は仕事とラグビーの両立を喜びとしていた。
「将来的に日本がW杯でベスト4を目指すならば、プロ化が必要でしょう。でも、僕の場合は営業でいい流れが作れると、ラグビーもうまくいく感じでした。その逆もまた、しかり。しかも僕はサントリーの、本当にいい時代にプレーできたと思っています。入社したころは、選手によってはモチベーションに差がありましたが、年が経つにつれて、モラル、規範が出来ていき、毎年優勝を争うチームに発展していきました。その一員になれたことは僕の誇りです」
「痛いことができる人」
2012年から真壁はキャプテンを務め、そのシーズンにはトップリーグ、日本選手権の2冠を達成する。真壁自身がチームカルチャーの醸成に大いに寄与したわけだが、振り返ってみると、海外からやってきた選手の役割もサンゴリアスにとって大きかったという。
「外国からやってくる選手には、いろいろな人がいます。サントリーでプレーした海外の選手は超一流でしたね。たとえば、オーストラリアの主将も務めたSHのジョージ・グレーガンは試合前のルーティーンをインストールして、それが今のサントリーにも伝わっています。南アフリカから来たフーリー・デュプレアはチームミーティングの進め方を確立してくれました。みんな、サンゴリアスに入った時よりも、チーム力を上げてから去っていくことに誇りをもっていました」
サントリーの中に合って、真壁は「痛いことができる人」という評価を得ていた。
「真壁はケガに強い、とか誰かが勝手に言い出して(笑)。本当に迷惑しましたよ! 1年目のシーズンだったと思うんですが、三洋電機との決勝戦で、こんなことがありました。頭から相手にぶつかってしまい、耳のあたりで変な音がする。『これ、怖いな』と不安でたまらない。そうしたらトレーナーの無線から、スタンドのコーチ陣の声が聞こえてきたんです。『真壁の代わりはいない』って。冗談じゃないと思いましたよ。それで僕は、『俺を代えろ!』と大声で怒鳴ったら、それがスタンドのお客さんにも聞こえて、そこの一角だけ大爆笑してました(笑)」
たしかに、自分から大声で代えろと言う選手は記憶にない。