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バレー福澤達哉、二度目の海外挑戦。
自身の野望と覚悟を「言葉にする力」。
text by
田中夕子Yuko Tanaka
photograph byTakahisa Hirano
posted2019/12/24 11:00
2015年のブラジルに続き、自身ニ度目の海外生活。妻は「今しかできないことだから」と送り出してくれたという。
つきまとうコンプレックス。
リオ五輪前年の2015年、ブラジルのマリンガに渡った。スキルもメンタルも含め、自らのレベルアップにつなげたい。そう言い続けて来たが、実は初めての海外挑戦を決めた引き金は別にある。18歳で初めて日本代表に選出されて以降、消えることなくくすぶり続けたコンプレックスだった。
「上のレベルになればなるほど求められるものが上がって、自分が求めるレベルも変わります。こうならなければいけない、ああならなければいけないと思うし、実際、代表で活躍する選手って、決めるべきところで決める、そういうスター性があるんですよ。
たとえば北京(五輪)の頃ならば越川(優)さんがそうだったし、今で言えば石川(祐希)、西田(有志)、柳田(将洋)の、ここぞという時に出す力。それを持っている選手って本当にすごいと思うし、僕もそれを一生懸命追い求めてきました。でもそもそも、福澤の武器って何? と言われたらジャンプしかないわけですよ。それでもありがたいことに代表へ選んでいただいて、周りからは福澤、清水(邦広)が中心だ、という目で見られ、当然その期待に応えたいし、そうならなきゃいけない、と思う自分もいる。
日本で優勝させてもらった、三冠もした、MVPもとらせてもらった。傍から見れば結果は出しているかもしれないし、代表にも選ばれている。だけど、自分の中身は何1つ変わっていないんです。だからブラジルへ行ったのも、こんな自分を何か変えたいという一心だったし、外に出れば何か変わるんちゃうか、と。俺はほんとに必要な選手なのか、代表にいないといけない選手なんだろうか。ずっと自分の中にコンプレックスがつきまとっていました」
引退を翻意させた、清水の言葉。
リオ五輪出場を逃した2016年には引退も決意していた。
4年後に迫る東京五輪に自分が選手として立つ姿と、オフィシャルスポンサーでもあるパナソニックの社員として五輪に関わる姿。どちらを想像するかと問われれば、答えは明確だ。ましてや福澤の所属部署は五輪の中枢で仕事に携わることも可能であり、企業スポーツ選手でありながら、オリンピックのスポンサーシップに携わる部署に新入社員の時から所属できたことは異例でもある。30歳を迎えた当時、将来を見据えたメリット、デメリットを基準とするならば、迷う余地はなかったはずだ。
だが、眼前に広がる安定を覆し、再び挑戦へと促すきっかけをつくったのが清水だった。7割方、引退に傾いていた心を見抜いたのか、何気なく発した言葉が福澤を突き動かした。
「リオも、ロンドンも逃してバレーは低迷期、つらい思いもいっぱいしてきたし、自分たちの不甲斐なさもいっぱい感じて来たよな。でも、どうなるかわからへんけど、挑戦できるチャンスがあるなら、最後は笑って終われるようにやろうや」
日本のエースとして、福澤以上に叩かれ、落ち込む姿を見て来た清水は前向きな決意を抱いている。一方自分はといえば、コンプレックスを払拭できないまま「無理だ」とやり残した思いに蓋をして、メリットだけを考え、違う道へ進もうとしている。
どちらが正解かはわからない。だが、下したのはその日まで、全く考えもしなかった決断。練習を終え、自宅に戻り、清水とのやり取りを伝え、妻にこう告げた。
「俺、やるわ」