ボクシングPRESSBACK NUMBER
「戦闘マシーン」と「良き父親」。
井上尚弥が持つ正反対の2つの顔。
text by
前田衷Makoto Maeda
photograph byAsami Enomoto
posted2019/12/01 20:00
「アリ・トロフィー」を手に写真撮影に応える井上。その肩に手を掛ける大橋会長は「尚弥のタフネスを証明できた」と胸を張る。
ドネアでも耐えられなかった左ボディ。
本人が「ドネアが二重に見えた」というピンチに遭遇しても、臨機応変に作戦を変更してアウトボクシング(本人は何度もポイントアウトと言ったが)に切り替え7、8、9の3ラウンドを捨てて後半に反撃する作戦も実行した。井上の適応能力の高さも初めて見るものだった。
10回にはポイントを奪い返し、そして11回には左フックを脇腹に打ち込んでドネアからダウンを奪う。無意識に出たのではなく「狙っていた」パンチだった。打ちたくてもドネアの反撃を警戒してなかなか打てなかったボディーショットがようやく決まったのだ。
昔はボディーブローで倒れる選手は練習していない証拠として軽蔑されたが、近年は一概にそうともいえなくなった。いくら鍛えても耐えられないほど強い、井上のようなボディー打ちの名手もいるからだ。
ドネアほどの経験豊富なボクサーでも、井上のこの左には耐えられなかった。一瞬顔をゆがめて井上に背を向けると、逃げるように自コーナーまで走り、ここでひざをついた。試合続行に応じたドネアのガッツもさすがだが、ダウンから10秒以上は経過していたろう。
試合後の会見で大橋会長と井上は「幻のKO」と笑って抗議したが、論議を呼ぶような判定だったら笑いごとでは済まされなかったろう。両雄は最終12ラウンドも手を出し合い、判定は3-0で井上の手が上がったが、ジャッジの1人は1点差だったのだ。
試合が終了し、判定が出る前に2人が抱き合う場面もよかった。互いに相手をリスペクトしていることが伝わってきた。
アリについては「これから勉強」。
結果が出て、試合前から井上が公言していた「世代交代」はなったのか、ならなかったのかは微妙なところだ。ドネアもこれで引退などとは口にしていないし、「井上に最大のピンチを味わわせた男」としてまだまだ出番はあるだろう。
WBSSトーナメントの優勝者に贈られる巨大な「アリ・トロフィー」を手にした井上は「いいデザインです」と戦利品が気に入っているようだった。
アリと同時代を生き、特にアリに思い入れが強い筆者はこのトーナメントが始まった頃に井上に「アリについてどう思う?」と聞いたことがある。「よく知らないので、すぐに答えられない。これから勉強してから答えます」という返事だった。
ドネア戦後の会見で別の記者が同じような質問をした。この時井上は「時代が違うので……」と、あまりピンとこないようだった。時代は変わった。落胆してはいけないのだろう。